橋梁からの眺め
雪もよひの灰色の空が、一刷毛の水色味を帯び、仄な冬の日射しがにぢんできた。
コンクリートの建物の間に、列車の線路は入り乱れてゐる。
積もつた雪の白さで、うねつてゐる線路はくつきり極だつてゐた。
雪のおかげで、どれほどの息苦しくなるやうな物共が、消えたことだらう。
赤銹に染まつた鉄屑、ンボールの切れ端、スレートのかけら、空缶、ガラスのかけら、そんなものが線路ぎわに転がり、吹く風にも銹のにほひが含まれてゐるかと思はれる程にいがらつぽかつたのだが、数日前から降り出した雪は、全てをさつぱりと清めてくれたのだ。
雪後の町は優しかつた。
男の心をさえ、物悲しさに似た愛惜の気配に塗り込めて、身近な光景に思ひがけなくも新鮮な親わしさを覚えさせるのだつた。
通りを歩いてゆく人々の顔は、みな思索を巡らしてゐる時のやうに静かで、何かをいつくしんでゐる気持ちを表情のどこかに表てゐる。
小さな子供は、通りの端のまだ誰の足跡も無い雪を柔かく踏みつけて、嬉しげな表情をしながらも、初冬の空の色が目に入れば、何かしら厳粛な、生真面目な色を、表情に底に漂はせるのだ。
冬になつたのだ。
もう本当の冬だつた。
この雪はもう来年の春まで消えないで、更にこの上に今夜あたり新しい雪が降りつむことだらう。
男は、初冬の雪に包まれた、黄昏れてゆく町を見てゐた。
降り積もつた雪は、町の物音を吸収し、どこからか、やうやく聞こえて来る子供の喚声は、夢の中の音のやうに遥かな響きで、一層静けさを感じさせるのだ。
車が引きずるチェーンが、凍結した雪に、姦しい音を響かせたが、実に時たまのことだつた。
町のあらゆるものが、冬の到来を具体的に認識し、さうしてそれを厳かに迎へやうとしてゐるやうだった。
『雪よ、』と、町の人々は必ず心の中で語りかけることだらう。
何事かを、彼ら一人一人の生活の反映の心象の作用として、必ずや雪に語りかけるのだ。
人々は、お互ひにその内容を披瀝することもなかつたが、その事実は、しめやかな表情に明らかだつた。
この何かしら甘美な抒情的なもの、胸中を響動ませるものをもたらす雪。
人はそれを不安に感じ、自嘲すらもするのだが。
黄昏の初冬の陽射しが、薔薇色から檸檬色に変はつてゆくのを見定めながら、男はその光の変遷に、陶然となつてゐる。
男にとつて雪は媒介だつた。
彼が、雪に馴染んだのは、むかしの事だつたし、いつのまにか再び、かうして雪が降りつもる町に来てゐても、雪はもう男にとつて白い、冷たい、清冽な、それだけのものではなくなつてをり、むしろ何ものかと彼の意識との間をめまぐるしく往来するものたちの媒介といふべきものに思はれるのだ。
その事は、男を不幸な気持ちにさせなかつた。
むしろ雪によつて、自分の記憶にさまざまな影像が見えかくれするのを喜ばしく思ふのだ。
男、雪の豊饒な地方で、物心を育てられたのだつたけれども、雪の齎す記憶のコマはふるさとではなかつた。
彼の脳裏を間断をもち、ゆつくり横切つてゆくのは、たまさかに思ひだす、故郷の記憶より、幾倍も鮮烈な色彩に満ちてゐる。彼を捉へるのは、これから書かうとする物語り。
テクノラティプロフィール

雪もよひの灰色の空が、一刷毛の水色味を帯び、仄な冬の日射しがにぢんできた。
コンクリートの建物の間に、列車の線路は入り乱れてゐる。
積もつた雪の白さで、うねつてゐる線路はくつきり極だつてゐた。
雪のおかげで、どれほどの息苦しくなるやうな物共が、消えたことだらう。
赤銹に染まつた鉄屑、ンボールの切れ端、スレートのかけら、空缶、ガラスのかけら、そんなものが線路ぎわに転がり、吹く風にも銹のにほひが含まれてゐるかと思はれる程にいがらつぽかつたのだが、数日前から降り出した雪は、全てをさつぱりと清めてくれたのだ。
雪後の町は優しかつた。
男の心をさえ、物悲しさに似た愛惜の気配に塗り込めて、身近な光景に思ひがけなくも新鮮な親わしさを覚えさせるのだつた。
通りを歩いてゆく人々の顔は、みな思索を巡らしてゐる時のやうに静かで、何かをいつくしんでゐる気持ちを表情のどこかに表てゐる。
小さな子供は、通りの端のまだ誰の足跡も無い雪を柔かく踏みつけて、嬉しげな表情をしながらも、初冬の空の色が目に入れば、何かしら厳粛な、生真面目な色を、表情に底に漂はせるのだ。
冬になつたのだ。
もう本当の冬だつた。
この雪はもう来年の春まで消えないで、更にこの上に今夜あたり新しい雪が降りつむことだらう。
男は、初冬の雪に包まれた、黄昏れてゆく町を見てゐた。
降り積もつた雪は、町の物音を吸収し、どこからか、やうやく聞こえて来る子供の喚声は、夢の中の音のやうに遥かな響きで、一層静けさを感じさせるのだ。
車が引きずるチェーンが、凍結した雪に、姦しい音を響かせたが、実に時たまのことだつた。
町のあらゆるものが、冬の到来を具体的に認識し、さうしてそれを厳かに迎へやうとしてゐるやうだった。
『雪よ、』と、町の人々は必ず心の中で語りかけることだらう。
何事かを、彼ら一人一人の生活の反映の心象の作用として、必ずや雪に語りかけるのだ。
人々は、お互ひにその内容を披瀝することもなかつたが、その事実は、しめやかな表情に明らかだつた。
この何かしら甘美な抒情的なもの、胸中を響動ませるものをもたらす雪。
人はそれを不安に感じ、自嘲すらもするのだが。
黄昏の初冬の陽射しが、薔薇色から檸檬色に変はつてゆくのを見定めながら、男はその光の変遷に、陶然となつてゐる。
男にとつて雪は媒介だつた。
彼が、雪に馴染んだのは、むかしの事だつたし、いつのまにか再び、かうして雪が降りつもる町に来てゐても、雪はもう男にとつて白い、冷たい、清冽な、それだけのものではなくなつてをり、むしろ何ものかと彼の意識との間をめまぐるしく往来するものたちの媒介といふべきものに思はれるのだ。
その事は、男を不幸な気持ちにさせなかつた。
むしろ雪によつて、自分の記憶にさまざまな影像が見えかくれするのを喜ばしく思ふのだ。
男、雪の豊饒な地方で、物心を育てられたのだつたけれども、雪の齎す記憶のコマはふるさとではなかつた。
彼の脳裏を間断をもち、ゆつくり横切つてゆくのは、たまさかに思ひだす、故郷の記憶より、幾倍も鮮烈な色彩に満ちてゐる。彼を捉へるのは、これから書かうとする物語り。
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