記憶のしじま【草の宿(344)】
まるで生成の布を、たっぷりと綿を含ませて縫い上げた、てっかいしのようなトビダケの房を、男は欠けぬように、痛めぬように、実に慎重な手さばきでサクリと切り取っては尋夫に手渡し、ホッと柔らかく吐息をついては次の房に取りかかるのです。
受け取ればずしりと柔らかな重みがあり、立ち上る芳香は鼻先から胸元にじわりとしみ通るような、なんとも懐しい心持ちを誘います。
野の匂いには、ちらりと胸をよぎるものをほのめかせるものがあります。
芽の匂い、葉の匂い、蕾の匂い、花の匂い、土の匂い、水の匂い。
風や日の光に溶け込んだそれらの匂いに、ふと立ち止まっては、今、かすめ通った記憶が何だったのか、なにを思い出そうとしたのだったろうかと思いめぐらすことがあります。
アメフリバナの匂いを嗅げば、もしかしたら赤ん坊の自分が、初めて手折ったのはこの花ではないかと思い、蔦漆の新芽の匂いを嗅げば、母親に手を引かれて山道を登った赤ん坊に毛が生えたような年頃の自分が嗅いだ匂いのように、尋夫は思い描くのです。けれどもそれが果たして本当の記憶なのかどうか、確かめる術はありません。
そんな、感覚をひと撫でするような、刺戟と言うにはあまりにもはかない、記憶をそっと揺するような野の匂いの呼びかけを感じることは、山で暮らす日が長くなるにつれて多くなりこそすれ、すこしも減衰する気配はありません。
けれどもトビダケの匂いには、はっきりとした記憶があります。それは初めて祖父の炭焼き小屋を訪れたとき。
立ちこめた炭の匂い、煙のわずかに酸味を帯びたようないがらっぽい匂い、乾いた薪の匂いや杉の葉の匂いの中に、子供の尋夫はトビダケの匂いを嗅いだのをはっきりと覚えていました。
あれはいったいどんな季節だったのだろうと、尋夫は草の上に受け取ったトビダケをそっと並べながら思いました。本当にトビダケが小屋の中にある季節だったのか、それはわかりません。
「おじさん、トビダケとはいうものの、これほどに若い柔らかい色では、まるでてっかいしみたいだなあ。これがもう少し茶色を帯びなければ、トンビの羽には見えないよ」
男は尋夫の声に、きょとんとした目を向けました。それからゆるゆると破顔して、折り曲げていた腰を伸ばしました。
「テッカイシねえ。妙なものを思い出すもんだな。だがうまいことを言う。そう言えば、昔はこんな色の帆布で作ったテッカイシを、どこの山子も使ったものだ。そうだ、俺も作ってもらったことがあったっけ。毛糸の手袋を編んでもらったときよりも、何倍もうれしかったもんだ。俺もやっと大人になったといった気分になったものさ。
だがあの生成のテッカイシは、すぐに真っ黒になっちまうのさ。半日も山仕事をすればな。およそトビダケが黒ずんじまうより、よっぽどあっけなく真っ黒になるのさ。
こいつはトンビの羽になるには、まだあと一日、二日はいるだろう」
男は手の中の一房の根元についた枯れ葉を採りながら、いとおしそうに眺め入っています。
「おじさん、俺は柳の枝をもいでこよう。柳を編んで、葉っぱを敷いて、こいつを包み込んでしまおう」
「そいつはいい。だが鉈がないのに大丈夫か」
「なに、編み込むのには、手折れるほどの枝がちょうどいいじゃないか」
「・・・・いいぞ、あんちゃん、確かにそのようだ。よし、一丁試してみな」
日は山陰に落ちて、さえずるアカハラの声が、一段と気ぜわしくなったようです。キツツキのドラミングは止みました。
振り仰げば、早くも夜鷹が一羽、柔らかな放物線を描いて谷の底をめがけて舞い降りてゆきました。鳥は葛の蔓の向こうに見えなくなり、短く断続する啼き声がはるか下方から響いてきました。
尋夫は柳の若枝を折りながら、まるで自分が記憶の中の世界に舞い戻ったかのような気がするのでした。
テクノラティプロフィール
まるで生成の布を、たっぷりと綿を含ませて縫い上げた、てっかいしのようなトビダケの房を、男は欠けぬように、痛めぬように、実に慎重な手さばきでサクリと切り取っては尋夫に手渡し、ホッと柔らかく吐息をついては次の房に取りかかるのです。
受け取ればずしりと柔らかな重みがあり、立ち上る芳香は鼻先から胸元にじわりとしみ通るような、なんとも懐しい心持ちを誘います。
野の匂いには、ちらりと胸をよぎるものをほのめかせるものがあります。
芽の匂い、葉の匂い、蕾の匂い、花の匂い、土の匂い、水の匂い。
風や日の光に溶け込んだそれらの匂いに、ふと立ち止まっては、今、かすめ通った記憶が何だったのか、なにを思い出そうとしたのだったろうかと思いめぐらすことがあります。
アメフリバナの匂いを嗅げば、もしかしたら赤ん坊の自分が、初めて手折ったのはこの花ではないかと思い、蔦漆の新芽の匂いを嗅げば、母親に手を引かれて山道を登った赤ん坊に毛が生えたような年頃の自分が嗅いだ匂いのように、尋夫は思い描くのです。けれどもそれが果たして本当の記憶なのかどうか、確かめる術はありません。
そんな、感覚をひと撫でするような、刺戟と言うにはあまりにもはかない、記憶をそっと揺するような野の匂いの呼びかけを感じることは、山で暮らす日が長くなるにつれて多くなりこそすれ、すこしも減衰する気配はありません。
けれどもトビダケの匂いには、はっきりとした記憶があります。それは初めて祖父の炭焼き小屋を訪れたとき。
立ちこめた炭の匂い、煙のわずかに酸味を帯びたようないがらっぽい匂い、乾いた薪の匂いや杉の葉の匂いの中に、子供の尋夫はトビダケの匂いを嗅いだのをはっきりと覚えていました。
あれはいったいどんな季節だったのだろうと、尋夫は草の上に受け取ったトビダケをそっと並べながら思いました。本当にトビダケが小屋の中にある季節だったのか、それはわかりません。
「おじさん、トビダケとはいうものの、これほどに若い柔らかい色では、まるでてっかいしみたいだなあ。これがもう少し茶色を帯びなければ、トンビの羽には見えないよ」
男は尋夫の声に、きょとんとした目を向けました。それからゆるゆると破顔して、折り曲げていた腰を伸ばしました。
「テッカイシねえ。妙なものを思い出すもんだな。だがうまいことを言う。そう言えば、昔はこんな色の帆布で作ったテッカイシを、どこの山子も使ったものだ。そうだ、俺も作ってもらったことがあったっけ。毛糸の手袋を編んでもらったときよりも、何倍もうれしかったもんだ。俺もやっと大人になったといった気分になったものさ。
だがあの生成のテッカイシは、すぐに真っ黒になっちまうのさ。半日も山仕事をすればな。およそトビダケが黒ずんじまうより、よっぽどあっけなく真っ黒になるのさ。
こいつはトンビの羽になるには、まだあと一日、二日はいるだろう」
男は手の中の一房の根元についた枯れ葉を採りながら、いとおしそうに眺め入っています。
「おじさん、俺は柳の枝をもいでこよう。柳を編んで、葉っぱを敷いて、こいつを包み込んでしまおう」
「そいつはいい。だが鉈がないのに大丈夫か」
「なに、編み込むのには、手折れるほどの枝がちょうどいいじゃないか」
「・・・・いいぞ、あんちゃん、確かにそのようだ。よし、一丁試してみな」
日は山陰に落ちて、さえずるアカハラの声が、一段と気ぜわしくなったようです。キツツキのドラミングは止みました。
振り仰げば、早くも夜鷹が一羽、柔らかな放物線を描いて谷の底をめがけて舞い降りてゆきました。鳥は葛の蔓の向こうに見えなくなり、短く断続する啼き声がはるか下方から響いてきました。
尋夫は柳の若枝を折りながら、まるで自分が記憶の中の世界に舞い戻ったかのような気がするのでした。
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2007/09/10(月) 07:43:06 | バードウォッチング−鳥侍屋



















