街灯の下で妻君が消えた【西瓜(5)】

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西瓜(5)
 後ろを振り返り振り返り、某はやうやく例の街灯の明りを見ることが出来るところまで息を荒ませながら歩いた。

 虚脱感に逆らつて、某は一所懸命に歩いた。
 もう街灯まで数十メートル程のところにやつて来たとき、その橙色の光の中に、ボッと人影が現れた。

 それは某の細君だつた。

 某は心の底から深いため息を吐き出した。
 細君は某が歩いて行くのを、光の中でじつと見つめてゐた。

 細君は、近寄つてこなかつた。声も出さなかつた。

 表情の動きは、まだ某に見えなかつた。
 頭上から光を浴びてゐるので、細君の顔は大変影が濃く、それでいよいよ表情を判らなくしてゐた。

 某も声を出さなかつた。
 しかし腹の底から湧き出るやうな安心で、某は少しの余裕を取り戻し、ポケットからハンカチを取りださうとした。
 確かにそこに入れたはずのあのハンカチは無かつた。
 畑の中に落してきたのかも知れない。

 某は右の手の平で顔の汗を拭ひ、街灯の方を見ると、細君は光の輪の向かふ側に移動してゐた。

 なぜ薄暗い方に行つたのだらうと某は訝しく感じたが、やはり声はかけなかつた。
 某と細君は光の輪をはさんで向ひ合つてゐたのだが、もちろん細君の方が光に近いので、着物の白さはボッと暗がりの中に浮かんでゐた。

 某は更に近付き、もう細君との間は十メートル程だつた。
 二人の間には街灯の光の輪があつた。

 その距離になつても、細君は動かなかつた。うつけたやうに、じつと某の方を眺めてゐるだけだつた。

 某は流石に不審に思ひ、おいと、声をかけ、それと細君の顔が白い着物の上でボッと青白く光りだしたのは同時だつた。

 それはもはや細君の顔ではなかつた。

 今しがた某が畑の中で見た、男の顔になつてゐるのだつた。
 細くて長い顔にばさりと斜めに髪がかぶさり、その合間から瞳の無い眼窩のくぼみが某を凝視してゐた。
 頬はノミで抉つたやうにこけ、その頬から頬にかけて朱の薄い唇が刃物の傷口のやうに走つてゐ、さうして顔全体から発する光は燃える燐のそれに似てゐた。

 某は瞬間、息を吸ひ込むことができなくなり、身体全体をもがかせたが、そのまま横倒れに路上に倒れ、一切の意識を失つてしまつた。
                   (続く)

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