手ぶらのみやげ
靴の中に小石が入り込んで立ち止まると、妹はかたわらを歓声を上げて走り抜けて行きました。
「兄ちゃん、やっぱり早すぎなかったよ」
藪の中から妹の叫ぶ声が聞こえます。その声に、少年はすばやく靴をはき直して、妹の後を追いました。
イタドリの茂みをくぐり抜けると、川の流れる音が不意に高まりました。妹が川縁に立ってこちらに向けてあわただしく、おいでおいでをしています。
妹の背丈よりも伸びたクマイチゴの一叢が、夕方の影を濃くする陽光の中に、黒ずんで見えました。その黒い密集した葉陰に、つややかな紅の実がたわわに輝いているのを、少年は駆け寄りながらも素早く見届けました。
「どうだ、すっかり熟しているだろ」
少年は得意そうに叫びました。
「兄ちゃん、すごい。こんなに大きなクマイチゴよ」
妹の声は興奮してうわずっています。
この川縁のクマイチゴは、少年が見つけた特別のクマイチゴです。何故かはわかりません。この一叢のクマイチゴは、際立って実が大きく、際立ってたわわに実り、そして甘みが濃かったのです。
二人は夢中でクマイチゴを摘み、摘んでは口に運びました。
あるいはこれは、クマイチゴではないのではないかと思われる、なんだか夢で嗅いだかとも思われるような、懐しい匂いがあたりに充ちています。
夢中でイチゴをほおばっている二人は、不意に顔を見合わせました。あるか無きかの風にまじった歌声が聞こえてきたのです。
少年は向かい側の斜面の山道に目をやりました。潅木の合い間から、ちらちらと数人の人影が見えました。いづれも白いシャツを着ていて、中に一人だけ水色の夏服が見えました。
温泉から帰る町の人たちです。
歌声と砂里を踏む乾いた足音は、やがて二人がいる真上までやって来ましたが、誰も川縁の二人には気づかない様子でした。夜も近いその時刻に、いかつい登山姿ではなく、まるで町中を行くような華やかな軽装で山道を歩く人たちは、狐の嫁入りの行列のような眺めです。
歌声は大人の女の人の声でした。
度胸の入った大声で、『月がとっても青いから』と、歌っていたのです。
二人は夏草の中に立ちつくし、行列を見送りました。歌声は終わりませんでした。遠のき、足音が聞こえなくなっても、歌声だけはながながと聞こえたのです。
人々の気配がすっかり失われるまで、二人はイチゴを摘む手を止めて、そこに立ちつくしていました。
「ねえ、おじさんは帰ってこないかなあ」
妹がつぶやくように言いました。街に帰る人たちの姿に、街に住んでいるおじさんを思い出したのでしょう。
「今度来るときはなにを持ってきてくれるかなあ」
「やっぱり手ぶらの土産がいいよな」
少年も、ふとおじさんの姿を思いだして言いました。
「あたしも手ぶらの土産がいい。でも「リボン」も早く読みたいなあ」
二人のおじさんは、鉱山につとめています。採鉱課を卒えて、街の向こうの鉱山で働いているのです。
月に一度か二度、おじさんは帰ってきます。おじさんが帰ってくるときには、必ず二人におみやげを忘れませんでした。
おみやげは町で買ってきてくれた雑誌やら、お菓子やら、色鉛筆やら、色々です。
けれども時としておじさんは、何か急な用件で帰ってくることがありました。その時には、街に寄らずに、鉱山からまっすぐ山の家に向かってくるのです。町で買ったおみやげは手にしていません。
あわただしく父や母とに大人の相談をして、おじさんはすぐに街に戻るときがあるのでした。
そんな時、遊びに誘う言葉もかけがたく、二人が凝っと見守っているのに気づくと、おじさんは不意にポケットを探るのでした。
「悪かったな。今日は俺は大急ぎだったんだ。街による時間がなくてね。今度来るときに本は買ってきてやるよ。今日の土産はこれで我慢してくれよな」
おじさんはそう言って、何度かポケットの中身をおみやげにくれたのでした。
あるときはレンズが四枚も重なったルーペでした。駄菓子屋で買った虫眼鏡とは比較になりません。ずしりと重みがあり、覗き込めばそこには虫眼鏡では見られない神秘の世界があったのです。
「ほんと?おじさん、これをもらっていいの?」
少年も妹も、あまりのことに目を見開いて叫ぶように聞きました。
「いいとも。どうだ、これはドイツ製だぞ。チョウチョの鱗粉だってかたちが見えるぞ。その辺の小石をこれで見てみな、全く別物みたいに光るものが見えるぞ。だけどひとつしかないからな。けんかをしないで、二人で大事に使うんだ」
時にはポケットから、十徳ナイフが出てきたこともありました。貝の化石が出てきたこともありました。
「今日はほんとになにもないのだ。山道を登って何にもないのに気がついてな、困った困ったと思って歩いてたんだが、おまえたち、こんなのが弦の助沢の河原にはあることを知らなかっただろ。ふと思いついて、土産と言うにはあんまりだけど、これを拾ってきてあげたよ。なに、五分もしないで見つけたよ。俺が子供の時は、あの辺で沢山化石を集めたんだ」
なんというおじさんの手腕でしょう。子供の目にも、それは価値などつけられないような、宝石に思われたのです。
「おじさんのおみやげは手ぶらがいい」
少年と妹は、いつとはなく、二人だけの合い言葉のように、おじさんを思い出してはつぶやきあうのでした。
(この稿は続きます)
テクノラティプロフィール
靴の中に小石が入り込んで立ち止まると、妹はかたわらを歓声を上げて走り抜けて行きました。
「兄ちゃん、やっぱり早すぎなかったよ」
藪の中から妹の叫ぶ声が聞こえます。その声に、少年はすばやく靴をはき直して、妹の後を追いました。
イタドリの茂みをくぐり抜けると、川の流れる音が不意に高まりました。妹が川縁に立ってこちらに向けてあわただしく、おいでおいでをしています。
妹の背丈よりも伸びたクマイチゴの一叢が、夕方の影を濃くする陽光の中に、黒ずんで見えました。その黒い密集した葉陰に、つややかな紅の実がたわわに輝いているのを、少年は駆け寄りながらも素早く見届けました。
「どうだ、すっかり熟しているだろ」
少年は得意そうに叫びました。
「兄ちゃん、すごい。こんなに大きなクマイチゴよ」
妹の声は興奮してうわずっています。
この川縁のクマイチゴは、少年が見つけた特別のクマイチゴです。何故かはわかりません。この一叢のクマイチゴは、際立って実が大きく、際立ってたわわに実り、そして甘みが濃かったのです。
二人は夢中でクマイチゴを摘み、摘んでは口に運びました。
あるいはこれは、クマイチゴではないのではないかと思われる、なんだか夢で嗅いだかとも思われるような、懐しい匂いがあたりに充ちています。
夢中でイチゴをほおばっている二人は、不意に顔を見合わせました。あるか無きかの風にまじった歌声が聞こえてきたのです。
少年は向かい側の斜面の山道に目をやりました。潅木の合い間から、ちらちらと数人の人影が見えました。いづれも白いシャツを着ていて、中に一人だけ水色の夏服が見えました。
温泉から帰る町の人たちです。
歌声と砂里を踏む乾いた足音は、やがて二人がいる真上までやって来ましたが、誰も川縁の二人には気づかない様子でした。夜も近いその時刻に、いかつい登山姿ではなく、まるで町中を行くような華やかな軽装で山道を歩く人たちは、狐の嫁入りの行列のような眺めです。
歌声は大人の女の人の声でした。
度胸の入った大声で、『月がとっても青いから』と、歌っていたのです。
二人は夏草の中に立ちつくし、行列を見送りました。歌声は終わりませんでした。遠のき、足音が聞こえなくなっても、歌声だけはながながと聞こえたのです。
人々の気配がすっかり失われるまで、二人はイチゴを摘む手を止めて、そこに立ちつくしていました。
「ねえ、おじさんは帰ってこないかなあ」
妹がつぶやくように言いました。街に帰る人たちの姿に、街に住んでいるおじさんを思い出したのでしょう。
「今度来るときはなにを持ってきてくれるかなあ」
「やっぱり手ぶらの土産がいいよな」
少年も、ふとおじさんの姿を思いだして言いました。
「あたしも手ぶらの土産がいい。でも「リボン」も早く読みたいなあ」
二人のおじさんは、鉱山につとめています。採鉱課を卒えて、街の向こうの鉱山で働いているのです。
月に一度か二度、おじさんは帰ってきます。おじさんが帰ってくるときには、必ず二人におみやげを忘れませんでした。
おみやげは町で買ってきてくれた雑誌やら、お菓子やら、色鉛筆やら、色々です。
けれども時としておじさんは、何か急な用件で帰ってくることがありました。その時には、街に寄らずに、鉱山からまっすぐ山の家に向かってくるのです。町で買ったおみやげは手にしていません。
あわただしく父や母とに大人の相談をして、おじさんはすぐに街に戻るときがあるのでした。
そんな時、遊びに誘う言葉もかけがたく、二人が凝っと見守っているのに気づくと、おじさんは不意にポケットを探るのでした。
「悪かったな。今日は俺は大急ぎだったんだ。街による時間がなくてね。今度来るときに本は買ってきてやるよ。今日の土産はこれで我慢してくれよな」
おじさんはそう言って、何度かポケットの中身をおみやげにくれたのでした。
あるときはレンズが四枚も重なったルーペでした。駄菓子屋で買った虫眼鏡とは比較になりません。ずしりと重みがあり、覗き込めばそこには虫眼鏡では見られない神秘の世界があったのです。
「ほんと?おじさん、これをもらっていいの?」
少年も妹も、あまりのことに目を見開いて叫ぶように聞きました。
「いいとも。どうだ、これはドイツ製だぞ。チョウチョの鱗粉だってかたちが見えるぞ。その辺の小石をこれで見てみな、全く別物みたいに光るものが見えるぞ。だけどひとつしかないからな。けんかをしないで、二人で大事に使うんだ」
時にはポケットから、十徳ナイフが出てきたこともありました。貝の化石が出てきたこともありました。
「今日はほんとになにもないのだ。山道を登って何にもないのに気がついてな、困った困ったと思って歩いてたんだが、おまえたち、こんなのが弦の助沢の河原にはあることを知らなかっただろ。ふと思いついて、土産と言うにはあんまりだけど、これを拾ってきてあげたよ。なに、五分もしないで見つけたよ。俺が子供の時は、あの辺で沢山化石を集めたんだ」
なんというおじさんの手腕でしょう。子供の目にも、それは価値などつけられないような、宝石に思われたのです。
「おじさんのおみやげは手ぶらがいい」
少年と妹は、いつとはなく、二人だけの合い言葉のように、おじさんを思い出してはつぶやきあうのでした。
(この稿は続きます)
テクノラティプロフィール
この記事のトラックバックURL
http://houshakuki.blog36.fc2.com/tb.php/665-74349802
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック




















