空腹【草の宿(263)】

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草の宿(263)

 昼下がり、尋夫は山道を登りながら、あたりの木々の変化の速さに驚くのでした。

 朝、この道を駆け下ったときには、まだ山毛欅の新芽からほの見えていた薄黄色いものが、すでに銀色の和毛におおわれた小指の先ほどの葉になっているのです。
 遠くから望めば、山毛欅の林は若草色の薄物をまとい、さらにその上から銀色の雪が降り注いだかのように見えるのでした。

 今はもう枝先に若葉の兆しが見えない木はありません。耳を澄ませば、音を立てて樹液が盛んに樹幹を上る音が聞こえそうな、激しいとも思えるほどの生気が、すべての木々に満ち満ちているのです。

 空腹を押さえながら山道を登り詰め、平坦な林道に出たところで、たまらなくなって道の脇を流れる雪代混じりの湧き水を救って喉を潤しました。透き通る冷たいものが、胃の底まで直線になって流れ落ちて、身震いするほどのうまさです。

 腹が減ると思いはひたすらに食べ物に向かいます。樹間を流れてくる風が運ぶ新芽の甘やかな匂いすらも、尋夫の空腹を募らせるようでした。尋夫は二度三度と水をすくい、腹の虫をなだめました。

 けれども空腹の幻想ばかりではないような気もしてくるのです。冷たい水で気合いを入れ直して、尋夫は林道を歩きながら時折木々の間をのぞき見ます。

 コゴミが丸い頭をもたげているのを見つけては、こいつをいずれ食ってやると思い、タラの芽が光沢のある粘液に包まれた朴を破っているのを見かけては、これももうすぐだと思います。イタドリがピンクの芽を蕨のホタの間から伸ばし、シドケがすでに紅葉の葉のような葉を広げています。いずれも尋夫が食べたことのある山菜でした。

 空腹の尋夫には、林の中に食べられるものが無尽蔵に芽吹きだしたかと思われるのでした。

 山鳩の鳴き声がしました。郭公の声も聞こえます。その声に尋夫は足を止めました。
 ついに来たのかという思いが、尋夫の胸の中に起こります。

 何故なのかはわかりませんが、この山に暮らすことを夢見ていたときに、必ず思い描くのは朝のウグイス、真昼の郭公山鳩、そして夕刻のアカハラと黒鶇の声だったのです。そして黄昏時の夜鷹と、夜の虎鶇とフクロウの声。その中のふたつの声が不意に聞こえたのです。尋夫は靄のような若葉色の枝をすかして、鳥影を探しました。

 樹林は深く、鳥の姿は見えませんでした。けれども、不意に鳴き出した山鳩郭公は、堰を切ったかのように啼き競いはじめるのです。

 尋夫はしばらく、空腹を忘れてその声に聞き入りました。若葉が吹き出すように、自分の身体の中にも、幸福な力がみなぎるのを覚えるのです。

 小屋の屋根が見えるところまで来て、尋夫は林道の傍に咲き出したアセビの下に、女の人が腰を下ろしているのに気がつきました。アセビは大人の背丈よりも高く林道に覆い被さるように茂っています。女の人は、アセビの傘の下で、悠然とキセルで煙草を吸っています。

 山菜を探しに来た里の人だろうと思い、尋夫は無言で近づきました。女の人は、キセルの煙をうまそうに吐き出し、なんだか陶然としているようです。あるいは山鳩郭公の鳴き声に聞き惚れているのかも知れません。

 近づいてきた尋夫に気づき、口からキセルを放して、女の人は呼びかけてきました。

「おーい、尋夫。何だ、ずいぶん早い帰りだねえ」

 いきなり自分の名を呼ばれて、尋夫は一瞬ひるみました。すぐには誰か、わからなかったのです。



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