悲鳴
あの人が三度目に私の前に現れたのは、そんな時でござゐました。
私は、私に見られて取り乱した犬のやうに、そんなところを他人に見られたことを不快に思ひました。あの人は、いつものやうに私の姿を見て、すぐに坂を下りることをせず、暫くこちらを眺めてをりました。
あの人の服装はその日も変はりなく、顔を覆つた布もしつかりと巻きつけられてをりました。
私は狂暴な二匹の犬の前で、あの人に会釈しました。あの人は身動ぎもゐたしませんでした。
業を煮やしたやうに一匹が唸り声を一段と高め、私に跳びかかる素振りをしては後戻りをゐたします。それに鼓舞されたやうに、もう一匹も同じことを始めましたので、ついに私は両手に鍬を持ち直し、二匹を追ひ払ふことにゐたしました。
視界の端にあの人が動くのを認めました。
突然あの人が敏捷に駆けて来るのでした。
犬がたぢろぎ、私もまたあの人のこの急にとつた思ひ掛け無い動きに驚きました。
あの人は走りながら、右手のスコップを肩の辺まで持ち上げました。私はそれが私に向けられて投げられるやうな気がし、思はず喉の奥で声を発しました。十間ほど手前であの人の上体が弾み、右手を振り下ろしたときには、飛んで来るものを遮らうとして身を搓じりました。
野良犬が悲鳴を上げました。姿勢を立て直してはじめて、私はあの人の敵意が私に向けられたものではないことを察しました。二匹の犬は二つの球になつて畑の中を逃げ、今まで四つ脚が踏んばつてゐたあたりに真新しいスコップが斜めに突き立つてゐたのでございました。
私は思ひがけない出来事に、あつけにとられて立ち竦みました。あの人が私の前でそんにもあつさりとそれまでの他人を避け続けてゐたありやうから変はつたこと、それにしても高が野良犬に対して、烈し過ぎるほどの行為にでたこと、私はあの人の取つた行為に胸の中の不審なものがいよいよ膨らむのを覚へました。
顔を覆つた布の下で息をはずませながら、あの人は突き立つたスコップを眺め、そして私を振り返りました。目が見開かれてをりました。わずかにのぞいた顔の肌が、艶やかに紅をおびてをりました。
私は視線をあの人から逸らさず、短く謝意の言葉を呟きました。唐突に生じた他人との関係に困惑してゐたせいもあり、私がしたことはそれが精一杯のことでござゐました。
あの人はあのやうに劇しい行為をした人とは思はれぬ程に私の前でうなだれ打ちしおれてゆくやうでござゐました。あの人の呼吸の乱れが鎮まるのを待ちながらも、私は次にか言葉を捜しあぐねてをりました。
「ころすことだつてできたのに」
胸のうちで一人ごちるやうな、細い若い女の声がしました。見開いたあの人の目は、何か熱いものの結晶のやうに輝いてゐるのでござゐました。
何事も無かつたやうに、そして何をする目的も無かつたかのやうに、あの人は立ち去るのでござゐました。朝の光に地面に長く映つたあの人の影が揺れ、その影を追ふやうにゆつくりと歩み、小山を下つて行くのでござゐました。
(続く)
テクノラティプロフィール

あの人が三度目に私の前に現れたのは、そんな時でござゐました。
私は、私に見られて取り乱した犬のやうに、そんなところを他人に見られたことを不快に思ひました。あの人は、いつものやうに私の姿を見て、すぐに坂を下りることをせず、暫くこちらを眺めてをりました。
あの人の服装はその日も変はりなく、顔を覆つた布もしつかりと巻きつけられてをりました。
私は狂暴な二匹の犬の前で、あの人に会釈しました。あの人は身動ぎもゐたしませんでした。
業を煮やしたやうに一匹が唸り声を一段と高め、私に跳びかかる素振りをしては後戻りをゐたします。それに鼓舞されたやうに、もう一匹も同じことを始めましたので、ついに私は両手に鍬を持ち直し、二匹を追ひ払ふことにゐたしました。
視界の端にあの人が動くのを認めました。
突然あの人が敏捷に駆けて来るのでした。
犬がたぢろぎ、私もまたあの人のこの急にとつた思ひ掛け無い動きに驚きました。
あの人は走りながら、右手のスコップを肩の辺まで持ち上げました。私はそれが私に向けられて投げられるやうな気がし、思はず喉の奥で声を発しました。十間ほど手前であの人の上体が弾み、右手を振り下ろしたときには、飛んで来るものを遮らうとして身を搓じりました。
野良犬が悲鳴を上げました。姿勢を立て直してはじめて、私はあの人の敵意が私に向けられたものではないことを察しました。二匹の犬は二つの球になつて畑の中を逃げ、今まで四つ脚が踏んばつてゐたあたりに真新しいスコップが斜めに突き立つてゐたのでございました。
私は思ひがけない出来事に、あつけにとられて立ち竦みました。あの人が私の前でそんにもあつさりとそれまでの他人を避け続けてゐたありやうから変はつたこと、それにしても高が野良犬に対して、烈し過ぎるほどの行為にでたこと、私はあの人の取つた行為に胸の中の不審なものがいよいよ膨らむのを覚へました。
顔を覆つた布の下で息をはずませながら、あの人は突き立つたスコップを眺め、そして私を振り返りました。目が見開かれてをりました。わずかにのぞいた顔の肌が、艶やかに紅をおびてをりました。
私は視線をあの人から逸らさず、短く謝意の言葉を呟きました。唐突に生じた他人との関係に困惑してゐたせいもあり、私がしたことはそれが精一杯のことでござゐました。
あの人はあのやうに劇しい行為をした人とは思はれぬ程に私の前でうなだれ打ちしおれてゆくやうでござゐました。あの人の呼吸の乱れが鎮まるのを待ちながらも、私は次にか言葉を捜しあぐねてをりました。
「ころすことだつてできたのに」
胸のうちで一人ごちるやうな、細い若い女の声がしました。見開いたあの人の目は、何か熱いものの結晶のやうに輝いてゐるのでござゐました。
何事も無かつたやうに、そして何をする目的も無かつたかのやうに、あの人は立ち去るのでござゐました。朝の光に地面に長く映つたあの人の影が揺れ、その影を追ふやうにゆつくりと歩み、小山を下つて行くのでござゐました。
(続く)
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