フラメンコのギター・ソロ
フラメンコに於けるギター(9)
創造的ギタリストは、それぞれ独自のスタイルと、フラメンコギターの異なった可能性を開発していますが、フラメンコが演奏される条件は、全ての演奏家に影響を与えています。
現在フラメンコで最も重要な力の一つは、独奏ギターが得た大いなる人気です。実際、ある聴衆にとっては、独奏ギターが即ちフラメンコであると言っても良いです。
もっと保守的な愛好家や批評家は、ギターの本当の役割はカンテを援助することであると主張して、この異論に鋭く対立しています。
しかし大抵の場合、真実はこの対立した二つの意見の間のどこかに存在するのでしょう。
パコ・デ・ルシアは、ギタリストの立場から述べています。
『ギター・ソロはフラメンコを表現する新しい形式である。ギターは新しいが、我々はそれが重要な音楽として奏でられるよう努力し、闘っている』
フラメンコ独奏は、本体から枝別れした新しい型式ですが、フラメンコの伝統の本流に密着しています。パコ・ペーニャが語る、次の言に反対するものはいないでしょう。
『独奏するなら本物のフラメンコを演奏すべきです。そして本物の雰囲気、即ち歌、踊り、伴奏に親しむことで更に優れたものとなるでしょう』
当然、独奏と伴奏とでは演奏者に異なった要求をします。
独奏者には責任を分担すべき、また霊感を受けたり与えたりする共演者がいません。
伝統的フラメンコ一座の演奏では、ギターは踊りによる衝撃的要素や、歌の旋律的要素と結合していますが、独奏ギタリストはフラメンコの音楽劇を一人で創らねばなりません。
彼は、たぶん団体の中にいた時より、表現の自由はあるでしょうが、フラメンコの伝統的構造が、あまりに自由すぎることに直面し、世評が危険なものであることに気づくのです。
独奏フラメンコ・ギターが、まっとうなものであることを否定する人々は、しばしば独奏者(自身のための作曲家、あるいは少くとも編曲者でなければならない)が、途方もなく偉大であることを要求したり、伴奏者としての分を守っている人々と比較しますと、音楽感覚で劣っているとみなしたりしがちです。
戦後のフラメンコの歴史は、この定説を覆すための困難のそれです。
ニーニョ・リカルドやサビカスのような偉大な演奏家は、独奏がカンテに匹敵するものであることを証明しました。
ギタリスト、就中、独奏におけるギタリストの問題は、コンサートでフラメンコを演奏するようになって増しました。演奏者は、コンサート・ホールの冷たい形式ばった雰囲気の中で、音楽に興奮と自然な要素とを盛り込まねばなりません。
愛好者が血を湧かすような演奏が、舞台の上でなされるということを訝り、親密な環境でフラメンコを聞けるということが、どんなに恵まれたものであるか察するのは容易ではありません。
しかしコンサートホールは、今やフラメンコが避けて通ることができないものであり、それどころか多くの聴衆がいつでも“生きている”フラメンコを面のあたりにできる唯一の場です。
ともかく演奏家は、この難関を乗り越え、フラメンコの精神を伝え得る雰囲気を作り上げねばなりません。
パコ・ペーニャはギタリストの視点から、この問題を次のように見ています。
『どんな音楽にとっても、舞台は芸術の場ですが、フラメンコにとっては、とりわけそうです。
孤独に着飾って皆の注視の的となるのですが、そこで何が可能か。我々は舞台に供えて調整し、他のやり方ではフラメンコを見ることができない大衆に披露するのです。
私は舞台では自分自身のために、私が感受した気分を、音楽を演奏することで創造しようとします。
一人であれ、仲間と供にであれ。私は聴衆の面前にあることを感じても、彼らを見たいとは思いません。
私は感じた気分を、創造し得たならば喜び、それは聴衆に伝えられるでしょう。』
フラメンコの、最近の全世界の聴衆の大方は、アンダルシアの私的な宴、フィエスタに参加し、最も伝統的な形でフラメンコを見る機会は無いでしょう。しかしそのかわりに、かつて無い程に、高度なフラメンコ・ギターの演奏を、コンサート・ホールやレコードで、たっぷり聞くことができるのです。
テクノラティプロフィール

フラメンコに於けるギター(9)
創造的ギタリストは、それぞれ独自のスタイルと、フラメンコギターの異なった可能性を開発していますが、フラメンコが演奏される条件は、全ての演奏家に影響を与えています。
現在フラメンコで最も重要な力の一つは、独奏ギターが得た大いなる人気です。実際、ある聴衆にとっては、独奏ギターが即ちフラメンコであると言っても良いです。
もっと保守的な愛好家や批評家は、ギターの本当の役割はカンテを援助することであると主張して、この異論に鋭く対立しています。
しかし大抵の場合、真実はこの対立した二つの意見の間のどこかに存在するのでしょう。
パコ・デ・ルシアは、ギタリストの立場から述べています。
『ギター・ソロはフラメンコを表現する新しい形式である。ギターは新しいが、我々はそれが重要な音楽として奏でられるよう努力し、闘っている』
フラメンコ独奏は、本体から枝別れした新しい型式ですが、フラメンコの伝統の本流に密着しています。パコ・ペーニャが語る、次の言に反対するものはいないでしょう。
『独奏するなら本物のフラメンコを演奏すべきです。そして本物の雰囲気、即ち歌、踊り、伴奏に親しむことで更に優れたものとなるでしょう』
当然、独奏と伴奏とでは演奏者に異なった要求をします。
独奏者には責任を分担すべき、また霊感を受けたり与えたりする共演者がいません。
伝統的フラメンコ一座の演奏では、ギターは踊りによる衝撃的要素や、歌の旋律的要素と結合していますが、独奏ギタリストはフラメンコの音楽劇を一人で創らねばなりません。
彼は、たぶん団体の中にいた時より、表現の自由はあるでしょうが、フラメンコの伝統的構造が、あまりに自由すぎることに直面し、世評が危険なものであることに気づくのです。
独奏フラメンコ・ギターが、まっとうなものであることを否定する人々は、しばしば独奏者(自身のための作曲家、あるいは少くとも編曲者でなければならない)が、途方もなく偉大であることを要求したり、伴奏者としての分を守っている人々と比較しますと、音楽感覚で劣っているとみなしたりしがちです。
戦後のフラメンコの歴史は、この定説を覆すための困難のそれです。
ニーニョ・リカルドやサビカスのような偉大な演奏家は、独奏がカンテに匹敵するものであることを証明しました。
ギタリスト、就中、独奏におけるギタリストの問題は、コンサートでフラメンコを演奏するようになって増しました。演奏者は、コンサート・ホールの冷たい形式ばった雰囲気の中で、音楽に興奮と自然な要素とを盛り込まねばなりません。
愛好者が血を湧かすような演奏が、舞台の上でなされるということを訝り、親密な環境でフラメンコを聞けるということが、どんなに恵まれたものであるか察するのは容易ではありません。
しかしコンサートホールは、今やフラメンコが避けて通ることができないものであり、それどころか多くの聴衆がいつでも“生きている”フラメンコを面のあたりにできる唯一の場です。
ともかく演奏家は、この難関を乗り越え、フラメンコの精神を伝え得る雰囲気を作り上げねばなりません。
パコ・ペーニャはギタリストの視点から、この問題を次のように見ています。
『どんな音楽にとっても、舞台は芸術の場ですが、フラメンコにとっては、とりわけそうです。
孤独に着飾って皆の注視の的となるのですが、そこで何が可能か。我々は舞台に供えて調整し、他のやり方ではフラメンコを見ることができない大衆に披露するのです。
私は舞台では自分自身のために、私が感受した気分を、音楽を演奏することで創造しようとします。
一人であれ、仲間と供にであれ。私は聴衆の面前にあることを感じても、彼らを見たいとは思いません。
私は感じた気分を、創造し得たならば喜び、それは聴衆に伝えられるでしょう。』
フラメンコの、最近の全世界の聴衆の大方は、アンダルシアの私的な宴、フィエスタに参加し、最も伝統的な形でフラメンコを見る機会は無いでしょう。しかしそのかわりに、かつて無い程に、高度なフラメンコ・ギターの演奏を、コンサート・ホールやレコードで、たっぷり聞くことができるのです。
テクノラティプロフィール
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