フラメンコ(18)
フラメンコに於けるギター(5)
アグスティン・カスティリョン・“サビーカス”は、スペインの北端、パンプロナにジプシーとして生まれました。
フラメンコの本場、アンダルシアからは遠く離れていましたが、彼はギターの神童ぶりを発揮しました。
フェルナンド・エル・デ・トゥリアーナは、彼の著書『フラメンコの芸術と芸人達』で、サビーカスは、そのレパートリーをギターを持つ以前に、隣人の演奏から学んだと述べています。
彼の両親が楽器を買い与えると、彼はパンプロナで八歳の時デビューするほどに速い上達を見せ、十代になる前にマドリッドのコンテストで一位を獲得したほどでした。サビカスは幼いころを次のように語っています。
『私が影響を受けたギタリストは、例えばラモン・モントヤ、そしてニーニョ(マノロ)・デ・ウエルバ。だが、私は一人で学び、私を鍛えたのは私自身だった』(引用は、1977年カティ・ボーランドに紹介されてトム・エバンスがサビーカスに行ったインタビューによる)
サビカスの経歴は、彼が二十代だった1937年のスペイン市民戦争の勃発により中断され、彼はスペインを脱してアメリカに渡りました。
彼は1940年までニューヨークに住み、1967年までスペインに戻りませんでした。彼が帰国したのは、フラメンコギターの金メダルを、母国から受けとるためでした。
サビカスは1950年代の後半、フラメンコ・プロと題した、驚くべきレコードが発売されるまで、スペインの大衆からは長年にわたって殆ど忘れ去られていました。
以後、彼は多くの演奏家に影響を与えてきましたが、スペインを離れていたことと、アメリカで多くのレコードを作った経歴とが意外な成り行きをもたらしました。
彼は功績がありながらもスペインでは無名でしたが、ニーニョ・リカルドを聞いたことがない外国では有名です。
もっとも不可解なのはサビカスが、彼の域には及ばないカルロス・モントヤ(偉大なラモンの甥)よりも知られていないことです。
サビカスは、フラメンコの歴史の中で、非常に重要な位置を占めています。
彼は独奏者としての経歴のために、一身を捧げた最初のギタリストでした。そしてフラメンコギターで、コンサートホールにおける広い共感を得た最初の人でもありました。彼は大げさですが、それも無理もないと思われる言い方で、次のように主張しています。
『私が最初に興行人に会った時、彼らは問うたものです。
「ところでお前は何をするのだ?」
私は答えました。
「ギターを演奏するつもりです」と。
「誰の伴奏?」
「いいえ、セニョール、独奏します」
駆け出しのころ、わたしはほんの子供でしたが、彼らは認めてくれ、私も少しずつ大人になりました。
他のギタリスト達は、フラメンコの独奏を笑いましたが、フラメンコの今日の演奏に使われている手法の90パーセントは、私が創造したものです』
サビカスはリカルドとは非常に異なったタイプの演奏家です。
彼の技巧は独創的に磨かれ、かつ彼はその技巧のあらゆる側面を、等しく高度なものに開発しました。
殊に彼はすべての弦でのアルペジオ、三本の低音弦でのピカード、六弦にわたるアルサプア(親指を撥のように上下交互に動かす)が、可能であることを証明しました。パコ・ペーニャは同時代の芸術家の評価を次のようにしています。
『サビカスはギターを知り尽くしています。
彼は多くの和声と、減和音を紹介しました。それらを彼が弾き始めた時は、聞きとられませんでしたが、現在はフラメンコのものです。
サビカスは常に変化しており、私にとってはリカルドと同じく一人の天才です。
彼はすばらしい技巧と、それを用いる術を知っています。
私は彼のゆとりと、演奏ぶり、演奏と着想における熟達したなめらかさに敬意を表します。
着想の豊かさと流れ方は、すぐにはわかりません。彼がすべてをやすやすと行ってしまうものですから』
テクノラティプロフィール

フラメンコに於けるギター(5)
アグスティン・カスティリョン・“サビーカス”は、スペインの北端、パンプロナにジプシーとして生まれました。
フラメンコの本場、アンダルシアからは遠く離れていましたが、彼はギターの神童ぶりを発揮しました。
フェルナンド・エル・デ・トゥリアーナは、彼の著書『フラメンコの芸術と芸人達』で、サビーカスは、そのレパートリーをギターを持つ以前に、隣人の演奏から学んだと述べています。
彼の両親が楽器を買い与えると、彼はパンプロナで八歳の時デビューするほどに速い上達を見せ、十代になる前にマドリッドのコンテストで一位を獲得したほどでした。サビカスは幼いころを次のように語っています。
『私が影響を受けたギタリストは、例えばラモン・モントヤ、そしてニーニョ(マノロ)・デ・ウエルバ。だが、私は一人で学び、私を鍛えたのは私自身だった』(引用は、1977年カティ・ボーランドに紹介されてトム・エバンスがサビーカスに行ったインタビューによる)
サビカスの経歴は、彼が二十代だった1937年のスペイン市民戦争の勃発により中断され、彼はスペインを脱してアメリカに渡りました。
彼は1940年までニューヨークに住み、1967年までスペインに戻りませんでした。彼が帰国したのは、フラメンコギターの金メダルを、母国から受けとるためでした。
サビカスは1950年代の後半、フラメンコ・プロと題した、驚くべきレコードが発売されるまで、スペインの大衆からは長年にわたって殆ど忘れ去られていました。
以後、彼は多くの演奏家に影響を与えてきましたが、スペインを離れていたことと、アメリカで多くのレコードを作った経歴とが意外な成り行きをもたらしました。
彼は功績がありながらもスペインでは無名でしたが、ニーニョ・リカルドを聞いたことがない外国では有名です。
もっとも不可解なのはサビカスが、彼の域には及ばないカルロス・モントヤ(偉大なラモンの甥)よりも知られていないことです。
サビカスは、フラメンコの歴史の中で、非常に重要な位置を占めています。
彼は独奏者としての経歴のために、一身を捧げた最初のギタリストでした。そしてフラメンコギターで、コンサートホールにおける広い共感を得た最初の人でもありました。彼は大げさですが、それも無理もないと思われる言い方で、次のように主張しています。
『私が最初に興行人に会った時、彼らは問うたものです。
「ところでお前は何をするのだ?」
私は答えました。
「ギターを演奏するつもりです」と。
「誰の伴奏?」
「いいえ、セニョール、独奏します」
駆け出しのころ、わたしはほんの子供でしたが、彼らは認めてくれ、私も少しずつ大人になりました。
他のギタリスト達は、フラメンコの独奏を笑いましたが、フラメンコの今日の演奏に使われている手法の90パーセントは、私が創造したものです』
サビカスはリカルドとは非常に異なったタイプの演奏家です。
彼の技巧は独創的に磨かれ、かつ彼はその技巧のあらゆる側面を、等しく高度なものに開発しました。
殊に彼はすべての弦でのアルペジオ、三本の低音弦でのピカード、六弦にわたるアルサプア(親指を撥のように上下交互に動かす)が、可能であることを証明しました。パコ・ペーニャは同時代の芸術家の評価を次のようにしています。
『サビカスはギターを知り尽くしています。
彼は多くの和声と、減和音を紹介しました。それらを彼が弾き始めた時は、聞きとられませんでしたが、現在はフラメンコのものです。
サビカスは常に変化しており、私にとってはリカルドと同じく一人の天才です。
彼はすばらしい技巧と、それを用いる術を知っています。
私は彼のゆとりと、演奏ぶり、演奏と着想における熟達したなめらかさに敬意を表します。
着想の豊かさと流れ方は、すぐにはわかりません。彼がすべてをやすやすと行ってしまうものですから』
テクノラティプロフィール
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