フラメンコ(14)
フラメンコに於けるギター(1)
フラメンコに於けるギターの歴史は、尖鋭なギタリストの歴史を拡大しました。
ある者は小さな点で、例えば、特殊なフレーズで、そしてある人々、すなわち偉大な人々は、演奏の全部のスタイルを刷新するような影響を与えました。
フラメンコの早期には、偉大な歌手についての多くの逸話がありますが、彼らとともに演奏したギタリストは、影のような存在でした。
したがってフラメンコの大方の歴史上、全ての注意は、カンタオール(歌手)に焦点を合わせ、ギターの重要性は軽視されてきました。
しかしたとえ伴奏者が隷属するものであるとしたところで、その役割は重大です。
今日の先導者的フラメンコ・ギタリストである、パコ・ペーニャは次のように主張しています。
『ギターは、演奏団の中でなしたことに、その功を認められませんでした。
歴史的に、このことはフラメンコ音楽の発展にとって意味のあることです。
ギターは、声のみではなし得ない、様式の創造によってリズムを決定し、歌手のメロディの方向を決定します。現実にはギターは、あらゆる音楽を演奏できます。―――然し、スペインではかつてショウの中で、ギタリストが演奏したことはありませんでした。』《1976年、ロンドンにてトム・エバンスがパコ・ペーニャにインタビューしたものから引用》
我々が名を知り得る最初のトカオール(ギタリスト)の一人は、フランシスコ・ロドリゲス、すなわち“エル・ムルシアーノ”です。
彼は1848年、50歳で亡くなりました。
彼は小さなギターで、アンダルシアの歌い手の伴奏をし、非常な速度で演奏したといいます。
ミカエル・イヴァノヴィッチ・グリンカは、1847年、彼に会い、彼のトーケを記譜しようとし、遂には不成功に終わった試みを、数時間行きました。
この逸話や、それにジョージ・ボロウのジプシーギタリスト、セバスチャニーリョの“悪魔的かき鳴らし”、それに“間をおいて繰り返される、歌謡のジプシー的修飾”についての記述は、フラメンコにおけるギターの初期の位置関係を暗示しています。
グリンカがエル・ムルシアーノの演奏の複雑さを記譜することに失敗したり、ボロウがなした、ギターのかき鳴らしや、音楽的装飾についての記述したところは、フラメンコ・ギターの、ふたつの要素である、ラスゲアドとファルセータを指しているのであって、これらはどちらも既に明らかにされています。
フラメンコのラスゲアド(あるいはアンダルシア方言ではラスゲオ)は、単なるかき鳴らしより、遙かに激しいものです。
ラスゲアドには20種をこす型があって、和声、メロディ、リズム、そしてリズムに対位するものを表現するに用いられます。
すぐれた演奏家によるラスゲアドは、音以上のものであり、フラメンコギターの衝撃的な迫力を駆り立て、それでいて音楽の流れを瞹昧にしたり、頓挫させたりしないものです。
ファルセータは、それに対して、おもにしばしば複雑な変化で装飾されたメロディックな楽節です。ファルセータは、ギタリストのカンテの解釈として発達しましたが、どんなに複雑になっても、唄に潜む性格や、リズムや、旋律の進行の法則を見失ってはなりません。
フラメンコギターの早期では、技巧は限られていました。
左手の押さえ方は、比較的単純でしたし、右手の技巧は親指の使用により、重々しく抑制されたものでした。
複雑なピカードや、アルペジオ、トレモロの楽節は知られていませんでした。しかしカフェ・カンタンテの全盛時には、ギタリストの仕事は、より重要な任を帯び、技巧は急速に発達しました。
“エル・マエストロ・パティーノ”(1830〜1900)は、カフェで育った、すぐれた演奏家たちの最初の後継者として思い出されます。
しかし彼のフラメンコの殿堂における位置が、確実なものでありながら、彼の演奏レコードで、残っているものは殆どありません。
少いそのレコードから、彼は左手のリガードを用いたことで名を馳せ、良き伴奏者だったことがわかります。
カフェ・カンタンテのギタリスト達は、歌手と観客の注目を競り合うとして、演奏の発達に拍車をかけました。
1840年から1910年に生きた“パコ・エル・バルベロ”として知られた、カディスのフランシスコ・サンチェスは、独奏の楽節を拡げるために、いくつかのファルセータをいっしょに演奏する試みをしました。
かくして彼は、カフェの公衆の前で、独奏した最初のフラメンコ・ギタリストとされており、そしてついにはセヴィリアに自分の居酒屋を持つほどに富を得たのでした。
もう一つの注目を集める方法は、より複雑で印象深い技巧を開発することでした。
そしてカフェ・カンタンテはフラメンコ・ギターの、最初の本物の妙技の登場を目撃したのでした。
それらのうちの一人“パコ・デ・ルセーナ”(フランシスコ・ディアズ1855―1930)は、コルドバに生まれ、マラガで自分のフラメンコの大半を修得して、マドリッドのカフェ・シルヴェリオでスターの名声を得ました。
彼の演奏は、本質的に親指とラスゲアドの使用を基礎としていましたが、同時にクラシックギター演奏に根ざした、右手の技巧を取り入れていました。
彼が急断奏法や、ピカードや、三本指によるアルペジオや、p、a、m、i(親指、薬指、中指、人差し指)によるクラシックギターのトレモロを用いたことは、フラメンコに人気を集めることになったと信じられています。
歌手シルヴェリオ・フランコネッティ所有の、カフェ・シルヴェリオは、フラメンコの良き人材の宝庫でした。
このカンテの花形ギタリストとしてパコ・デ・ルセーナの後継者になったのは、1880年代後半のヘレス出身のハヴィエル・モリーナ(1868―1956)でした。
モリーナは、他の偉大なフラメンコギタリストと同様、天才児でした。
彼は12歳のころからギター演奏で家族を養っていたのでした。
17歳の時、離郷してセヴィリヤに行きました。
そこは当時のフラメンコの世界の中心でした。
そこで彼の兄弟と歌手アントニオ・チャコンと組んだのです。チャコンはカンテの最高の歌手とみなされ始めていました。
テクノラティプロフィール

フラメンコに於けるギター(1)
フラメンコに於けるギターの歴史は、尖鋭なギタリストの歴史を拡大しました。
ある者は小さな点で、例えば、特殊なフレーズで、そしてある人々、すなわち偉大な人々は、演奏の全部のスタイルを刷新するような影響を与えました。
フラメンコの早期には、偉大な歌手についての多くの逸話がありますが、彼らとともに演奏したギタリストは、影のような存在でした。
したがってフラメンコの大方の歴史上、全ての注意は、カンタオール(歌手)に焦点を合わせ、ギターの重要性は軽視されてきました。
しかしたとえ伴奏者が隷属するものであるとしたところで、その役割は重大です。
今日の先導者的フラメンコ・ギタリストである、パコ・ペーニャは次のように主張しています。
『ギターは、演奏団の中でなしたことに、その功を認められませんでした。
歴史的に、このことはフラメンコ音楽の発展にとって意味のあることです。
ギターは、声のみではなし得ない、様式の創造によってリズムを決定し、歌手のメロディの方向を決定します。現実にはギターは、あらゆる音楽を演奏できます。―――然し、スペインではかつてショウの中で、ギタリストが演奏したことはありませんでした。』《1976年、ロンドンにてトム・エバンスがパコ・ペーニャにインタビューしたものから引用》
我々が名を知り得る最初のトカオール(ギタリスト)の一人は、フランシスコ・ロドリゲス、すなわち“エル・ムルシアーノ”です。
彼は1848年、50歳で亡くなりました。
彼は小さなギターで、アンダルシアの歌い手の伴奏をし、非常な速度で演奏したといいます。
ミカエル・イヴァノヴィッチ・グリンカは、1847年、彼に会い、彼のトーケを記譜しようとし、遂には不成功に終わった試みを、数時間行きました。
この逸話や、それにジョージ・ボロウのジプシーギタリスト、セバスチャニーリョの“悪魔的かき鳴らし”、それに“間をおいて繰り返される、歌謡のジプシー的修飾”についての記述は、フラメンコにおけるギターの初期の位置関係を暗示しています。
グリンカがエル・ムルシアーノの演奏の複雑さを記譜することに失敗したり、ボロウがなした、ギターのかき鳴らしや、音楽的装飾についての記述したところは、フラメンコ・ギターの、ふたつの要素である、ラスゲアドとファルセータを指しているのであって、これらはどちらも既に明らかにされています。
フラメンコのラスゲアド(あるいはアンダルシア方言ではラスゲオ)は、単なるかき鳴らしより、遙かに激しいものです。
ラスゲアドには20種をこす型があって、和声、メロディ、リズム、そしてリズムに対位するものを表現するに用いられます。
すぐれた演奏家によるラスゲアドは、音以上のものであり、フラメンコギターの衝撃的な迫力を駆り立て、それでいて音楽の流れを瞹昧にしたり、頓挫させたりしないものです。
ファルセータは、それに対して、おもにしばしば複雑な変化で装飾されたメロディックな楽節です。ファルセータは、ギタリストのカンテの解釈として発達しましたが、どんなに複雑になっても、唄に潜む性格や、リズムや、旋律の進行の法則を見失ってはなりません。
フラメンコギターの早期では、技巧は限られていました。
左手の押さえ方は、比較的単純でしたし、右手の技巧は親指の使用により、重々しく抑制されたものでした。
複雑なピカードや、アルペジオ、トレモロの楽節は知られていませんでした。しかしカフェ・カンタンテの全盛時には、ギタリストの仕事は、より重要な任を帯び、技巧は急速に発達しました。
“エル・マエストロ・パティーノ”(1830〜1900)は、カフェで育った、すぐれた演奏家たちの最初の後継者として思い出されます。
しかし彼のフラメンコの殿堂における位置が、確実なものでありながら、彼の演奏レコードで、残っているものは殆どありません。
少いそのレコードから、彼は左手のリガードを用いたことで名を馳せ、良き伴奏者だったことがわかります。
カフェ・カンタンテのギタリスト達は、歌手と観客の注目を競り合うとして、演奏の発達に拍車をかけました。
1840年から1910年に生きた“パコ・エル・バルベロ”として知られた、カディスのフランシスコ・サンチェスは、独奏の楽節を拡げるために、いくつかのファルセータをいっしょに演奏する試みをしました。
かくして彼は、カフェの公衆の前で、独奏した最初のフラメンコ・ギタリストとされており、そしてついにはセヴィリアに自分の居酒屋を持つほどに富を得たのでした。
もう一つの注目を集める方法は、より複雑で印象深い技巧を開発することでした。
そしてカフェ・カンタンテはフラメンコ・ギターの、最初の本物の妙技の登場を目撃したのでした。
それらのうちの一人“パコ・デ・ルセーナ”(フランシスコ・ディアズ1855―1930)は、コルドバに生まれ、マラガで自分のフラメンコの大半を修得して、マドリッドのカフェ・シルヴェリオでスターの名声を得ました。
彼の演奏は、本質的に親指とラスゲアドの使用を基礎としていましたが、同時にクラシックギター演奏に根ざした、右手の技巧を取り入れていました。
彼が急断奏法や、ピカードや、三本指によるアルペジオや、p、a、m、i(親指、薬指、中指、人差し指)によるクラシックギターのトレモロを用いたことは、フラメンコに人気を集めることになったと信じられています。
歌手シルヴェリオ・フランコネッティ所有の、カフェ・シルヴェリオは、フラメンコの良き人材の宝庫でした。
このカンテの花形ギタリストとしてパコ・デ・ルセーナの後継者になったのは、1880年代後半のヘレス出身のハヴィエル・モリーナ(1868―1956)でした。
モリーナは、他の偉大なフラメンコギタリストと同様、天才児でした。
彼は12歳のころからギター演奏で家族を養っていたのでした。
17歳の時、離郷してセヴィリヤに行きました。
そこは当時のフラメンコの世界の中心でした。
そこで彼の兄弟と歌手アントニオ・チャコンと組んだのです。チャコンはカンテの最高の歌手とみなされ始めていました。
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