フラメンコ(10)
フラメンコの起源と発展(10)
50年代後半そして60年代前半のコルドヴァ、ヘレス、マラガでの祭りは、大衆の興味を刺戟し、新世代の芸術家を勇気づけました。
長時間にわたる演奏のレコードは、フラメンコの記録と再興とに重要な貢献をしました。1950年代前半に、ペリーコ・エル・デル・ルナールは古いカンテの名曲集を創ることに興味を持ち、かつまた要請をされもして取り掛かりました。
最初のうち、彼は迷っていました。
『私は過去の人々はそっとしておくべきだと思い、記録したがる人々にもそういった』(Ibid,p.293)
しかし、結局、彼は実行することに同意しました。
ペリーコは、この仕事には理想的な人間でした。
彼はギターをハヴィエル・モリーナに学び、さらに生涯にわたってアントニオ・チャコンやマヌエル・トーレをも含めた、偉大な歌手の伴奏を務めたことからも学び、博学な知識をものしていたのです。
そのレコードのために、彼はラファエル・ロメロやエル・ニーニョ・デ・アルマディンを含んだ、最高の現存の歌手達を選び、そして録音するカンテを彼らが忘れたり、まったく知らなかったものは、ペリーコみずからが彼らに教えました。
この『カンテ・フラメンコ・アンソロジー』三巻のおかげで、いくつかの型式が忘却から救われ、他のカンテへも新たな興味がかきたてられたのでした。
この試みの成功は、他の偉大な人々、例えばアントニオ・マイレーナやラ・ニーニョ・デ・ロス・ペイネスなどによるレコード発売に踏み切らせ、そして除々にカンテ・ホンドは、その喪失していた基盤を回復しました。
同時代、サビーカスやとりわけマヌエル・セラピ(エル・ニーニョ・リカルド)のギターのレコードは新世代の演奏者を鼓舞しました。
外国のフラメンコへの興味は、ジプシーのギタリスト、ロマン・エル・グラナイーノに次のように言わしむるほどに拡大しました。
『外国の大衆は、スペインの大衆よりも真のフラメンコを良く感得しました。スペインの外で演奏することは、芸術を愛する点においても、金銭面においても、十二分に報われます。もちろんフラメンコ的雰囲気は、望み得ないのですが』(出典不明)
しかし外国旅行の機会は、明らかに限りがあって、フラメンコ奏者たちが、スペインで適切な仕事を見つけるのは、依然として困難でした。
理想的なフラメンコのための場は、何人かの金持ちの愛好家によって催され、報酬が与えられ、気心の知れた演奏家集団や、知的な小数の聴衆が集い、飲み、かつ食べながらの私的宴にあるばかりでした。
報酬を得るには、わずかにタブラオ・フラメンコ(フラメンコ・ナイトクラブ)や、折々の演奏旅行だけでした。
フラメンコの近来の変化による、彼らの成果に対する評価は、まだ低すぎます。
スペイン人の演奏旅行に対する熱意、ここ15年来のその熱意は、この国に新しい影響と富をもたらしました。
ヨーロッパ人の通俗的消費文化の主流が、この国に流れ込んだことにより、生きる姿勢は、速やかに変わってきています。この変化は、フラメンコの環境、演奏そして音楽型式にも及んでいます。
スペインへの旅行では、スペインの“風土的”な典型として、フラメンコの一般的概念を抱くことになります。
またこの要求への反応として、主要都市や旅行者の行くところにタブラオ・フラメンコが続出するようになりました。この効用はどんなものであるでしょうか。ギタリスト、ホアン・マルティンは次のように言っています。
『個人的には、タブラオ・フラメンコは嫌い、である。
フラメンコをボタンを押すことでつくり出すことはできない。
しかし彼らが演奏家、そしてそれも良き演奏家に、期待するのがそれだ。
しかし毎夜、定刻に演奏することはフラメンコの本来の性格にそむくことである。
かくして演奏家は非常な訓練をし、途方もないパルマス(リズムを刻む手拍子)を叩き、そしてそれが一般旅行者に記憶づけられるのだ。
良い演奏家のいるタブラオ・フラメンコもあるが、多くのそれは金儲けのためのものだ。
タブラオ・フラメンコでは、霊感に満ちた一夜を送れるかもしれぬが、一週間の全ての日を、きまりきった仕事のために奏でることがどんなものか想像に難くない。』(From an interview with Tom Evans,London,1975)
テクノラティプロフィール

フラメンコの起源と発展(10)
50年代後半そして60年代前半のコルドヴァ、ヘレス、マラガでの祭りは、大衆の興味を刺戟し、新世代の芸術家を勇気づけました。
長時間にわたる演奏のレコードは、フラメンコの記録と再興とに重要な貢献をしました。1950年代前半に、ペリーコ・エル・デル・ルナールは古いカンテの名曲集を創ることに興味を持ち、かつまた要請をされもして取り掛かりました。
最初のうち、彼は迷っていました。
『私は過去の人々はそっとしておくべきだと思い、記録したがる人々にもそういった』(Ibid,p.293)
しかし、結局、彼は実行することに同意しました。
ペリーコは、この仕事には理想的な人間でした。
彼はギターをハヴィエル・モリーナに学び、さらに生涯にわたってアントニオ・チャコンやマヌエル・トーレをも含めた、偉大な歌手の伴奏を務めたことからも学び、博学な知識をものしていたのです。
そのレコードのために、彼はラファエル・ロメロやエル・ニーニョ・デ・アルマディンを含んだ、最高の現存の歌手達を選び、そして録音するカンテを彼らが忘れたり、まったく知らなかったものは、ペリーコみずからが彼らに教えました。
この『カンテ・フラメンコ・アンソロジー』三巻のおかげで、いくつかの型式が忘却から救われ、他のカンテへも新たな興味がかきたてられたのでした。
この試みの成功は、他の偉大な人々、例えばアントニオ・マイレーナやラ・ニーニョ・デ・ロス・ペイネスなどによるレコード発売に踏み切らせ、そして除々にカンテ・ホンドは、その喪失していた基盤を回復しました。
同時代、サビーカスやとりわけマヌエル・セラピ(エル・ニーニョ・リカルド)のギターのレコードは新世代の演奏者を鼓舞しました。
外国のフラメンコへの興味は、ジプシーのギタリスト、ロマン・エル・グラナイーノに次のように言わしむるほどに拡大しました。
『外国の大衆は、スペインの大衆よりも真のフラメンコを良く感得しました。スペインの外で演奏することは、芸術を愛する点においても、金銭面においても、十二分に報われます。もちろんフラメンコ的雰囲気は、望み得ないのですが』(出典不明)
しかし外国旅行の機会は、明らかに限りがあって、フラメンコ奏者たちが、スペインで適切な仕事を見つけるのは、依然として困難でした。
理想的なフラメンコのための場は、何人かの金持ちの愛好家によって催され、報酬が与えられ、気心の知れた演奏家集団や、知的な小数の聴衆が集い、飲み、かつ食べながらの私的宴にあるばかりでした。
報酬を得るには、わずかにタブラオ・フラメンコ(フラメンコ・ナイトクラブ)や、折々の演奏旅行だけでした。
フラメンコの近来の変化による、彼らの成果に対する評価は、まだ低すぎます。
スペイン人の演奏旅行に対する熱意、ここ15年来のその熱意は、この国に新しい影響と富をもたらしました。
ヨーロッパ人の通俗的消費文化の主流が、この国に流れ込んだことにより、生きる姿勢は、速やかに変わってきています。この変化は、フラメンコの環境、演奏そして音楽型式にも及んでいます。
スペインへの旅行では、スペインの“風土的”な典型として、フラメンコの一般的概念を抱くことになります。
またこの要求への反応として、主要都市や旅行者の行くところにタブラオ・フラメンコが続出するようになりました。この効用はどんなものであるでしょうか。ギタリスト、ホアン・マルティンは次のように言っています。
『個人的には、タブラオ・フラメンコは嫌い、である。
フラメンコをボタンを押すことでつくり出すことはできない。
しかし彼らが演奏家、そしてそれも良き演奏家に、期待するのがそれだ。
しかし毎夜、定刻に演奏することはフラメンコの本来の性格にそむくことである。
かくして演奏家は非常な訓練をし、途方もないパルマス(リズムを刻む手拍子)を叩き、そしてそれが一般旅行者に記憶づけられるのだ。
良い演奏家のいるタブラオ・フラメンコもあるが、多くのそれは金儲けのためのものだ。
タブラオ・フラメンコでは、霊感に満ちた一夜を送れるかもしれぬが、一週間の全ての日を、きまりきった仕事のために奏でることがどんなものか想像に難くない。』(From an interview with Tom Evans,London,1975)
テクノラティプロフィール
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