フラメンコ(9)
フラメンコの起源と発展(9)
劇場興行のフラメンコ・ショウは、軽蔑されながら功績もあった。
それは他の方法では、生活していくのが困難な演奏家に、生活の資をもたらしたこと、そして演奏旅行をすることで、フラメンコに対する興味が、スペイン以外にも広がった事である。
とりわけ北アメリカに出向いたものがそうでしたが、いくつかの巡業のショウは、リズムにおいて、また形式においての影響を得、そしてそれはフラメンコを豊かにし、後には興行することで混入した無意味なものは排除されていきました。
外国巡業で最も成功したもののうちの幾つかは、舞踊手、ラ・アルヘンティニータに編成された演奏団でした。
彼女はブエノス・アイレスで生まれましたが、早くからスペインに住み着き、彼女の演奏団は合衆国への最初の巡業でセンセーションを巻き起こしました。
1933年、彼女はニューヨークで“カディスの街通り”と題したショウを行きましたが、これは劇場フラメンコの、高い舞台の位置を考慮したものでした。
彼女は本物のフラメンコを上演し、カディスのサンタ・マリアの街の生活を表現しようとして、多くの特筆に価する演奏者を呼び集めました。
彼女は本物中の本物、ギタリストのマノロ・デ・ウエルバすらをも劇場にただ一人で出演するように説得した(彼はそれを厭い、契約を遂行する前に辞してしまったのですが)。
ラ・アルヘンティニータのニューヨークでの成果は、好意的に受けとめられ、メトロポリタン歌劇場にパヴロヴァやカルーソーと並んで像が創られ讃えられました。
カルメン・アマヤ(1913〜63)が、ブエノス・アイレスで暮らしていた時代、つまり1929年から1940年の間は、彼女の演奏団の成功と同時に、彼女の個人的成長の基礎の時としても重要でした。
彼女とギタリストのサビカスとが、広く一般的なものにした、コロンビアーナスにおいてラテン・アメリカの影響は、彼女自身の演奏を通じて顕著となりました。
劇場でのフラメンコの動向と、クラシック・ギターのコンサートの一般化とに伴って、遅かれ早かれフラメンコ・ギターがコンサートの舞台に初登場することは必至だったように思われます。
こうした催しは、ギターのフラメンコでの役割を伴奏だけであるという、大方の演奏家の意識によって、長い間実現しませんでした。
しかし1936年7月パリでギターソロの本格的形式を確立したラモン・モントーヤにより、コンサート・リサイタル、そしてレコード録音と、一連の行動でそれを実現しました。
ヨーロッパの戦争、そしてスペイン市民戦争の余波は、1940年代をフラメンコにとって不運な10年間にし、外国であるアメリカで演奏される機会がわずかにあるばかりでした。
このような状況下で、1942年、カルメン・アマヤが、ブロードウェイのレヴューで、滅多に無いフラメンコの雰囲気の中に登場し、1944年にはハリウッドで映画に出演しました。そのカンテ・ホンドの芸術は、復活以上の観のあるものでした。
しかしながら真のフラメンコへの関心は1950年代になって、やっと(限りはあったものの)新しい演奏の機会を、まじめな演奏家にもたらして、再び高まってきたのでした。
テクノラティプロフィール

フラメンコの起源と発展(9)
劇場興行のフラメンコ・ショウは、軽蔑されながら功績もあった。
それは他の方法では、生活していくのが困難な演奏家に、生活の資をもたらしたこと、そして演奏旅行をすることで、フラメンコに対する興味が、スペイン以外にも広がった事である。
とりわけ北アメリカに出向いたものがそうでしたが、いくつかの巡業のショウは、リズムにおいて、また形式においての影響を得、そしてそれはフラメンコを豊かにし、後には興行することで混入した無意味なものは排除されていきました。
外国巡業で最も成功したもののうちの幾つかは、舞踊手、ラ・アルヘンティニータに編成された演奏団でした。
彼女はブエノス・アイレスで生まれましたが、早くからスペインに住み着き、彼女の演奏団は合衆国への最初の巡業でセンセーションを巻き起こしました。
1933年、彼女はニューヨークで“カディスの街通り”と題したショウを行きましたが、これは劇場フラメンコの、高い舞台の位置を考慮したものでした。
彼女は本物のフラメンコを上演し、カディスのサンタ・マリアの街の生活を表現しようとして、多くの特筆に価する演奏者を呼び集めました。
彼女は本物中の本物、ギタリストのマノロ・デ・ウエルバすらをも劇場にただ一人で出演するように説得した(彼はそれを厭い、契約を遂行する前に辞してしまったのですが)。
ラ・アルヘンティニータのニューヨークでの成果は、好意的に受けとめられ、メトロポリタン歌劇場にパヴロヴァやカルーソーと並んで像が創られ讃えられました。
カルメン・アマヤ(1913〜63)が、ブエノス・アイレスで暮らしていた時代、つまり1929年から1940年の間は、彼女の演奏団の成功と同時に、彼女の個人的成長の基礎の時としても重要でした。
彼女とギタリストのサビカスとが、広く一般的なものにした、コロンビアーナスにおいてラテン・アメリカの影響は、彼女自身の演奏を通じて顕著となりました。
劇場でのフラメンコの動向と、クラシック・ギターのコンサートの一般化とに伴って、遅かれ早かれフラメンコ・ギターがコンサートの舞台に初登場することは必至だったように思われます。
こうした催しは、ギターのフラメンコでの役割を伴奏だけであるという、大方の演奏家の意識によって、長い間実現しませんでした。
しかし1936年7月パリでギターソロの本格的形式を確立したラモン・モントーヤにより、コンサート・リサイタル、そしてレコード録音と、一連の行動でそれを実現しました。
ヨーロッパの戦争、そしてスペイン市民戦争の余波は、1940年代をフラメンコにとって不運な10年間にし、外国であるアメリカで演奏される機会がわずかにあるばかりでした。
このような状況下で、1942年、カルメン・アマヤが、ブロードウェイのレヴューで、滅多に無いフラメンコの雰囲気の中に登場し、1944年にはハリウッドで映画に出演しました。そのカンテ・ホンドの芸術は、復活以上の観のあるものでした。
しかしながら真のフラメンコへの関心は1950年代になって、やっと(限りはあったものの)新しい演奏の機会を、まじめな演奏家にもたらして、再び高まってきたのでした。
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