山に向かひて云ふこと無し
(3)
疏水が菜園を横切つてゐる。
疏水と畔道は。添つたり離れたりしながら、並び續いてゐる。頬かむりした女が、流れで野菜を洗つてゐる。傍でその女の、子であらう四・五歳ばかりの男の子が、所在なささうに、母親の手つきを眺めてゐる。
その親子の、質朴簡素な服装、顏付き、その仕種は、吟助を感動させるに充分であつた。何しろ、吟助は孤独な男である。親子の風情に心を和ませ、嬉々として歩み寄つて行つた。別に二人の居所を目ざして歩いたのではない。畔道は疏水に並行してゐるゆゑ自然の成り行き上である。
親子は顏を上げた。近付いて来た男が、里人ではないと勘付いたのである。不審な、四つの目だつた。吟助は、心をかすかに波打たせた。何程かの不安が、頭をもたげた。
(また何か悪い事が起こるのじやないだらうか)
吟助の予感は適中した。惡しき事になつたのである。
まず、女の傍にしやがんでゐた餓鬼が、おびえた聲を發し、母親の左腕に、シッカと縋りついた。
怪しき人だ、おつかあ、俺あ、おつかねえ。
母親は、萬の動物に共通の、種族維持の果敢な情を露にし、己の恐怖に逆らつて、息子の體をがつちり抱へ込み、かつと見開いた両眼で、吟助を凝視した。
何といふ本能の潔癖さであることか。その子を庇護するために、反射的に全身を動かした母親に対しては、あらゆる吟助の言ひわけは、受けつけられぬであらう。
物事万事、第一印象は肝心である。
いや、第一印象どころか、吟助の場合、第二印象も悪かつた。
(今晩は)しどろもどろの態で、吟助は頭を下げた。この對人関係を、いささかでも和やかにしたいと思つたからである。
これが逆効果。
(どこからおでました)
百姓女は甲高く一聲。
(へッ)
(どこから、おでました)
(およし、おつかあ、この人おつかない)
餓鬼は、ついに高らかに泣きだした。
(妙な格好のおひとじや、どこからおでました)
吟助は、途方に暮れて、今やつて来た方角を、熊笹の枝で指し示した。何故この親子が、きりりと身構へるのか、合天がゆかぬことである。心安く何気無く、今晩は、と返事をしてくれれば、それでよろしいのである。何を怯えることがあるだらう。
(あつち?あつちとは、どこぞ)
女は、執拗に疑ひの眼差しを、浴びせかけてくる。
(台地の北の斜面を下つたところ、雑木林の向かう)と、吟助は説明した。
へつらつてゐる自分が、ありありと感ぜられ、自己嫌悪の、瀧を浴びてゐる気分になつた。
女は、暫し茫然たる表情をしてゐたが、突如、思ひ當たることがあつたらしく、もろ手を、ぱんと打ち合はせ、次いで、吟助の顏を上向きに眺めて、にやりと意味ありげに嗤つた。
吟助は、その笑ひの裏に、何かがありさうな気配は感じたものの、その付加価値の意味は判然としない。しかし、ともかくも怯えられたり、怒り出されるよりは、笑ふ顏の方がましな気がした。
女は、すつくと立ち上がる。
折しも、畔道の向かうから、四人の女達が、やはり野菜の入つた背負ひ篭を背負つて、近づいて来たのである。
それら朋輩を眼にした女の顏は、今の今迄、野良の風に曝され、かさかさに干からび土色の平板体であつたものが、仮面を貼りつけたか、取り外したかのごとくに、瞬く間に豹変したではないか。
左様。その顏は油ぎり、眼球は紅に光り、分厚い唇には、汁気が帯びだしてゐる。やんぬるかな。その女の、急速な変貌ぶりに、吟助は、佳きことが始まるとは、とうてい思ふことが出来なかつたのである。
(それでは私は失礼ゐたします)
吟助は、この場は立ち去るが無難と心得たのである。吟助にも、危機を回避するための本能的な知恵はある。
(お待ちなせえよ)
年増はかう言ひ、吟助の衣の裾をつまんだ。ピリリッと、はかない音をたてて衣の裾が綻びた。
(急ぐことはあるもんかね、ゆつくりしていつてくんなまし)
(いいえ、私、帰ります。帰らせて戴きます)
(やあだあ、あんたあ、なんにも取つて喰はうつていふんでもあるまひに)
新に近づいて来た女の一人が、素頓狂な聲をかけた。
(ああれえ、おこもさんかあねえ)
(冗談じやあ、ありません)と、吟助は聲を震はせて、キッとその女を睨むつもりが、下腹に力が入らなくて、なんとなく優柔に上體をくねらせて、聲の主に顏を向けることになつた。
(さうでねうやう)と、先輩女。
(あにはからんや)
吟助は、オコリのやうに、體を震はせた。
何年ぶりかで、かやうに多勢の他人に取り囲まれたので、上気して、挙措がガクガクする。
顏が水色になるのが自覚された。
(何があにはからんやだ、俺のことを乞食だとはその目は節穴か)しかし、それは言の葉には芽吹かなかつた。
(このお人は、あれだとやう。北の林のかけ小屋の、若檀那さんですと)
(ああれえ、あの豪壮建築のお)
(あらあ、まんだ人が住んでをつたでか)
(並みのお方ではありますまひ。男前とは言ひ難けれども)
(その態、一體何たる心算さ。おこもさんと見紛ふのは、尊い方のシヤレ遊びでやんすか)
(髪が長いは、當世が流行ですと)
(なんとその筋に通暁してゐること)
(そのくせ着物はハッピみたいに見えやすが、裏は何色でしつらえてるんやら)
(ちよいと、初心の真似なら無用でごんす)
(ウラらも世渡りしてきたばかりで)
(お互ひさまだで、ゆつくりくつろいで)
(なあんと、道の真ん中で場違ひでがすよ)
吟助は、生まれてこの方、これ程までの人数に、一遍に話かけられた経験はなかつた。無論、これ程のいたぶられ方をした経験が、ある筈もなかつた。體の震へは、外見にも判然とわかるまでになり、吟助の顏は、發熱のあまり、水色から赤銅色になつた。
(日もしつかりとは落ちませぬうちから)
(あんだあ、それほどまでは本格的でなくともよろしいが)
(かりそめはいやですと。未練が長びくたあ、よろしくありますまひ)
(そのとおり、ウラあ十匹もジャリをヒッたが、角隠したらしてみたい)
(いやあだあ、あこぎなこと)
(ウラにばかり罪着せねえでくんなまし)エトセトラ。エトセトラ。
吟助は、ただ亡然として、地べたを見降ろしてゐる。
何の話をしてゐるのやら、皆目わからぬ。
合ひ間に、ケラケラと、水ッぽい笑ひを、はさむのが不気味である。餓鬼までもが、今や泣き止み、ひらひらと嗤ふのである。
吟助は、次第に口惜しさが募り、不覚にも両眼より熱いものが迸らせた。女達のさざめきがぴたりと止む。やや間があつて、先輩女。
(いやあだあ、泣いてゐるよ、このおこもさん)
女達は、顏を見合はせ、やや白けた空気を嗅いで、そそくさと仕事にかかり始めた。吟助は、ガクリと頚を垂らし、今来た道を戻り始めた。
彼の家、雑木林の向かう、北の斜面の草庵、佳矢のもとに帰るのである。
自己嫌悪の、瀧壷に沈められたやうな心地がした。なにがし山脈は、暮色にあつて既に天から消えてゐる。
翌朝である。
惡夢のごとき、昨日の出来事に食慾も無く、吟助は悄然として、畳に寝転がつて天井を見てゐた。佳矢は、一人で飯を食ひ、黙念として吟助を見た。
間が惡くなつて、吟助が身を起こしても、佳矢はやはり思案にたけたる表情をしてゐる。座を取り繕ふために、吟助は食卓につき、覚悟を決めて、やつとのことで一膳の飯を喰つた。まずい飯を喰つたのは、生まれて始めてのことである。
その場を立ち去らうとすると、佳矢は、何事かを思ひつめたる様子で、吟助を見上げた。そして重々しく口を開き、いかにも大儀さうに、あるひは、やり切れなささうに言ふことには、
(私、この家を出やうと思ひます)
(何?)
(出て、人里に参りたいと思ひます)
(なるほど)と、吟助はぽつりと言ひ、宙に目を馳せてから(人里には、人がをるからな、色々あることは確からしいな。行くがよろしからう)と、言つていいのか悪いのか、解りかねて黙つてゐる。
しかしただ黙つてゐては、佳矢に對して気の毒な気がした。久々に口を進んで開いた、妹である。定めし勇気が要つたことだらう。
(さうだ、さうするがよろしい)
吟助は一思ひに言つて、その口ぶりに、妹は、兄貴の軽薄さを、面白くなく感じるのだらうかと窺つた。
案の定、佳矢は少しも愉しさうでなく、やれやれ重荷を下ろしたといふ風でもなく、やつぱり黙念として、畳を見下ろしてゐる。
吟助、體をカチカチにして腰を上げ縁側に出て見れば、なにがし山脈の青峰がやや白つぽく埃にまみれたやうな色になつて天に浮いてゐる。
びつくりしてよくよく眺めたが、さう云へば、あの山脈は昨日もそんな、つまらぬ色だつたやうな気もして来るのだつた。
テクノラティプロフィール

(3)
疏水が菜園を横切つてゐる。
疏水と畔道は。添つたり離れたりしながら、並び續いてゐる。頬かむりした女が、流れで野菜を洗つてゐる。傍でその女の、子であらう四・五歳ばかりの男の子が、所在なささうに、母親の手つきを眺めてゐる。
その親子の、質朴簡素な服装、顏付き、その仕種は、吟助を感動させるに充分であつた。何しろ、吟助は孤独な男である。親子の風情に心を和ませ、嬉々として歩み寄つて行つた。別に二人の居所を目ざして歩いたのではない。畔道は疏水に並行してゐるゆゑ自然の成り行き上である。
親子は顏を上げた。近付いて来た男が、里人ではないと勘付いたのである。不審な、四つの目だつた。吟助は、心をかすかに波打たせた。何程かの不安が、頭をもたげた。
(また何か悪い事が起こるのじやないだらうか)
吟助の予感は適中した。惡しき事になつたのである。
まず、女の傍にしやがんでゐた餓鬼が、おびえた聲を發し、母親の左腕に、シッカと縋りついた。
怪しき人だ、おつかあ、俺あ、おつかねえ。
母親は、萬の動物に共通の、種族維持の果敢な情を露にし、己の恐怖に逆らつて、息子の體をがつちり抱へ込み、かつと見開いた両眼で、吟助を凝視した。
何といふ本能の潔癖さであることか。その子を庇護するために、反射的に全身を動かした母親に対しては、あらゆる吟助の言ひわけは、受けつけられぬであらう。
物事万事、第一印象は肝心である。
いや、第一印象どころか、吟助の場合、第二印象も悪かつた。
(今晩は)しどろもどろの態で、吟助は頭を下げた。この對人関係を、いささかでも和やかにしたいと思つたからである。
これが逆効果。
(どこからおでました)
百姓女は甲高く一聲。
(へッ)
(どこから、おでました)
(およし、おつかあ、この人おつかない)
餓鬼は、ついに高らかに泣きだした。
(妙な格好のおひとじや、どこからおでました)
吟助は、途方に暮れて、今やつて来た方角を、熊笹の枝で指し示した。何故この親子が、きりりと身構へるのか、合天がゆかぬことである。心安く何気無く、今晩は、と返事をしてくれれば、それでよろしいのである。何を怯えることがあるだらう。
(あつち?あつちとは、どこぞ)
女は、執拗に疑ひの眼差しを、浴びせかけてくる。
(台地の北の斜面を下つたところ、雑木林の向かう)と、吟助は説明した。
へつらつてゐる自分が、ありありと感ぜられ、自己嫌悪の、瀧を浴びてゐる気分になつた。
女は、暫し茫然たる表情をしてゐたが、突如、思ひ當たることがあつたらしく、もろ手を、ぱんと打ち合はせ、次いで、吟助の顏を上向きに眺めて、にやりと意味ありげに嗤つた。
吟助は、その笑ひの裏に、何かがありさうな気配は感じたものの、その付加価値の意味は判然としない。しかし、ともかくも怯えられたり、怒り出されるよりは、笑ふ顏の方がましな気がした。
女は、すつくと立ち上がる。
折しも、畔道の向かうから、四人の女達が、やはり野菜の入つた背負ひ篭を背負つて、近づいて来たのである。
それら朋輩を眼にした女の顏は、今の今迄、野良の風に曝され、かさかさに干からび土色の平板体であつたものが、仮面を貼りつけたか、取り外したかのごとくに、瞬く間に豹変したではないか。
左様。その顏は油ぎり、眼球は紅に光り、分厚い唇には、汁気が帯びだしてゐる。やんぬるかな。その女の、急速な変貌ぶりに、吟助は、佳きことが始まるとは、とうてい思ふことが出来なかつたのである。
(それでは私は失礼ゐたします)
吟助は、この場は立ち去るが無難と心得たのである。吟助にも、危機を回避するための本能的な知恵はある。
(お待ちなせえよ)
年増はかう言ひ、吟助の衣の裾をつまんだ。ピリリッと、はかない音をたてて衣の裾が綻びた。
(急ぐことはあるもんかね、ゆつくりしていつてくんなまし)
(いいえ、私、帰ります。帰らせて戴きます)
(やあだあ、あんたあ、なんにも取つて喰はうつていふんでもあるまひに)
新に近づいて来た女の一人が、素頓狂な聲をかけた。
(ああれえ、おこもさんかあねえ)
(冗談じやあ、ありません)と、吟助は聲を震はせて、キッとその女を睨むつもりが、下腹に力が入らなくて、なんとなく優柔に上體をくねらせて、聲の主に顏を向けることになつた。
(さうでねうやう)と、先輩女。
(あにはからんや)
吟助は、オコリのやうに、體を震はせた。
何年ぶりかで、かやうに多勢の他人に取り囲まれたので、上気して、挙措がガクガクする。
顏が水色になるのが自覚された。
(何があにはからんやだ、俺のことを乞食だとはその目は節穴か)しかし、それは言の葉には芽吹かなかつた。
(このお人は、あれだとやう。北の林のかけ小屋の、若檀那さんですと)
(ああれえ、あの豪壮建築のお)
(あらあ、まんだ人が住んでをつたでか)
(並みのお方ではありますまひ。男前とは言ひ難けれども)
(その態、一體何たる心算さ。おこもさんと見紛ふのは、尊い方のシヤレ遊びでやんすか)
(髪が長いは、當世が流行ですと)
(なんとその筋に通暁してゐること)
(そのくせ着物はハッピみたいに見えやすが、裏は何色でしつらえてるんやら)
(ちよいと、初心の真似なら無用でごんす)
(ウラらも世渡りしてきたばかりで)
(お互ひさまだで、ゆつくりくつろいで)
(なあんと、道の真ん中で場違ひでがすよ)
吟助は、生まれてこの方、これ程までの人数に、一遍に話かけられた経験はなかつた。無論、これ程のいたぶられ方をした経験が、ある筈もなかつた。體の震へは、外見にも判然とわかるまでになり、吟助の顏は、發熱のあまり、水色から赤銅色になつた。
(日もしつかりとは落ちませぬうちから)
(あんだあ、それほどまでは本格的でなくともよろしいが)
(かりそめはいやですと。未練が長びくたあ、よろしくありますまひ)
(そのとおり、ウラあ十匹もジャリをヒッたが、角隠したらしてみたい)
(いやあだあ、あこぎなこと)
(ウラにばかり罪着せねえでくんなまし)エトセトラ。エトセトラ。
吟助は、ただ亡然として、地べたを見降ろしてゐる。
何の話をしてゐるのやら、皆目わからぬ。
合ひ間に、ケラケラと、水ッぽい笑ひを、はさむのが不気味である。餓鬼までもが、今や泣き止み、ひらひらと嗤ふのである。
吟助は、次第に口惜しさが募り、不覚にも両眼より熱いものが迸らせた。女達のさざめきがぴたりと止む。やや間があつて、先輩女。
(いやあだあ、泣いてゐるよ、このおこもさん)
女達は、顏を見合はせ、やや白けた空気を嗅いで、そそくさと仕事にかかり始めた。吟助は、ガクリと頚を垂らし、今来た道を戻り始めた。
彼の家、雑木林の向かう、北の斜面の草庵、佳矢のもとに帰るのである。
自己嫌悪の、瀧壷に沈められたやうな心地がした。なにがし山脈は、暮色にあつて既に天から消えてゐる。
翌朝である。
惡夢のごとき、昨日の出来事に食慾も無く、吟助は悄然として、畳に寝転がつて天井を見てゐた。佳矢は、一人で飯を食ひ、黙念として吟助を見た。
間が惡くなつて、吟助が身を起こしても、佳矢はやはり思案にたけたる表情をしてゐる。座を取り繕ふために、吟助は食卓につき、覚悟を決めて、やつとのことで一膳の飯を喰つた。まずい飯を喰つたのは、生まれて始めてのことである。
その場を立ち去らうとすると、佳矢は、何事かを思ひつめたる様子で、吟助を見上げた。そして重々しく口を開き、いかにも大儀さうに、あるひは、やり切れなささうに言ふことには、
(私、この家を出やうと思ひます)
(何?)
(出て、人里に参りたいと思ひます)
(なるほど)と、吟助はぽつりと言ひ、宙に目を馳せてから(人里には、人がをるからな、色々あることは確からしいな。行くがよろしからう)と、言つていいのか悪いのか、解りかねて黙つてゐる。
しかしただ黙つてゐては、佳矢に對して気の毒な気がした。久々に口を進んで開いた、妹である。定めし勇気が要つたことだらう。
(さうだ、さうするがよろしい)
吟助は一思ひに言つて、その口ぶりに、妹は、兄貴の軽薄さを、面白くなく感じるのだらうかと窺つた。
案の定、佳矢は少しも愉しさうでなく、やれやれ重荷を下ろしたといふ風でもなく、やつぱり黙念として、畳を見下ろしてゐる。
吟助、體をカチカチにして腰を上げ縁側に出て見れば、なにがし山脈の青峰がやや白つぽく埃にまみれたやうな色になつて天に浮いてゐる。
びつくりしてよくよく眺めたが、さう云へば、あの山脈は昨日もそんな、つまらぬ色だつたやうな気もして来るのだつた。
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