ラモン・モントヤ【フラメンコの起源と発展(7)】

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フラメンコの起源と発展(7)

 シルベリオ・フランコネッティ Silverio Franconetti(1825―93)は、セビリャのthe calle Rosarioに自分のカフェを持ち、大いなる声価と、巨額の富を、自分で編み出した変化に富んだ型を、歌うことによって得たのでした。

 彼はジプシーではなかったにも拘わらず、カンテ・ヒターノを悉く修得しており、そして彼の偉大な成功は、他の歌手にレパートリーを広げ、彼の例に倣おうという刺戟を与えたのです。

 かくしてカフェ・カンタンテの需要は、歌い手の技巧と視野を広げ、かつカンテ・ヒターノとカンテ・アンダルースとを統一させることになったのです。

 それはまたカフェで大変な人気を持つようになってきた、ギターの役割を広げもしました。
 それぞれのカフェが、専属の第一、第二ギタリストを雇おうとしました。
 彼らギタリストは、多くの異なった歌や踊りの型式に伴奏するすべを身につけねばならなくなり、かつまた異なった歌い手のやり方と交感、適応して伴奏できなければならなかったのです。

 歌手達が、従来の型式を固辞していたのを、ギタリストが時流に適ったやり方を、少しずつ補う役割を演じたということでした。
 優れたギタリストは、ひくてあまたであり、大衆は彼らを愛し、かくして競争は激烈をきわめました。

 たがいに打ち勝とうとする努力の中から、演奏家達は新しい技巧を発揮しましたが、時には見世物師的なごまかしや、乱暴な行為、たとえば一方の手に手袋をはめて弾いたり、ギターを頭上に保ったりするやりかたに走ったりする者が出たりしました。
 このようなばかげた一面もありましたが、技巧の一般的レベルは向上し、カフェはすぐれたギタリスト達を育てていきました。

 そして遂にラモン・モントヤRamon Montoya(1880―1949)という頂点に達したのです。
 彼は後にフラメンコのソロギターの現代的スタイルを確立したのでした。

 カフェ・カンタンテの栄光時代は、世紀が変わって消滅してゆき、1910年代には深刻な不景気になりました。

 1936年のスペイン市民戦争の勃発のときから、劇場は「オペラフラメンコ」とか「フラメンコバレー」と、姿を変へたフラメンコを上演し始めました。
 劇場の経営者は、素朴な歌の公演から、漠然とフラメンコの雰囲気がある、少しも多様性のない演芸を上演するように方針を変えました。
 大衆の嗜好は、よりなめらかな声質、例えばアントニオ・チャコン(1865―1929)に代表されるようなものへと変わり、より気軽なアンダルシアのカンテ(ことにファンダンギーリョ)を好むようになって、シギリーヤスの偉大な大家マヌエル・トーレ(1879―1933)を範とするような、嗄れ声の激情的なジプシー・カンテから離れていきました。

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