フラメンコの起源と発展(5)
ロシアの作曲家ミハイル・イヴァノヴィッチ・グリンカ(1804〜57)は、スペイン音楽に魅せられた、もう一人の旅行者でした。彼はセヴィリャで語っています。
『1846年から47年にかけての冬は、われわれにとって愉快なものでした。
われわれはフェリスとミゲルのダンス・ショウを見に行きました。
そこではダンスの間に、最高の国民歌手が、東洋的仕種で登場しました。
踊り手は、複雑なステップを続け、その複雑さは、われわれが三つの異なつたリズムを聞いているような気にさせる程のものでした。
すなはち、歌い手は自分のやり方を通し、ギターは独立し、踊り手は完全に音楽と無関係なように、手を打ち足を踏み鳴らしたのです。
老いていますが、優れた国民歌手であるプラネタが訪れ、われわれのために歌ってくれた』(Mikhail Ivanovich Glinka,Memoirs,translated by Richard B. Mudge,Oklahoma,1963,p.206)
エル・プラネタ(1785〜1860)は、トゥリアーナの出身であり、フラメンコに今日も残っている、ジプシー歌謡の“ポロの王”として有名でした。
グリンカは、特にムーア人の占領時代のなごりである、この音楽の東洋的な響きに感動しました。1840年代の別の旅行者は、同様の特徴をカーニャに見出したのです(これは今も残るジプシーのフラメンコの歌の一形態であります)。
『踊りとブランデーとに囲まれた透明な休息に、真のアラビア的gaunia.ラ・カーニャ。
この歌こそ、フリルも飾りボタンもダイアモンドや仔羊皮の手袋も持たない、荒くれた芸人に、たたえられるものなのです。
この人たちの楽譜、そして悲嘆と郷愁は、いつでもアイ!という、高音の合い言葉や叫びに始まり、そして終る。
これら古く久しい、過去のなごりを含んだムーア風メロディは、ロンダ近くの丘の村に、最も良く残っています。
ここには、クリスティナ女王の、ナポリ音楽学校の人間のための道は無い』(Richard Ford,Gathering from Spain,London,1846.p.355)
1800年から1860年までの間の時代には、旅行記の中にそれとうかがうことができる、カンテ・アンダルースのファンダンゴス、マラゲーニャス、ペテネーラス、ロンデーニャ、またさらにカンテ・ヒターノのポロやカーニャを含んだフラメンコの記述があります。
確たる証拠は無いながら、多くの現代の論者は、カンテ・ヒターノを形成している、深い主情的なホンドは、この時期に誕生したのだと主張します。
しかし本当のところは謎のままなのです。
カンテ・ヒターノが、大抵、変わることなく、伴奏無しで歌われたという説が通っていますが、ボロウの証言では、ギターを少くとも時折はジプシーが用いたことは明らかです。
アンダルシアのカンテは、これよりは開放されており、また広範に演奏されました。
この民族の血統は、みすぼらしいものでありましたが、真に尊重されるべきものでした。
アンダルシアの民謡は、過去バンドゥリアやヴァイオリンやタンバリンを含む多様な楽器による伴奏がなされましたが、現在はギターが主導権を握っています。
いかにジプシーとアンダルシア人のカンテの間に関連があり、いかに当時両者の間で影響をしあったかを、推測できる事実が残っています。
ロシアの作曲家ミハイル・イヴァノヴィッチ・グリンカ(1804〜57)は、スペイン音楽に魅せられた、もう一人の旅行者でした。彼はセヴィリャで語っています。
『1846年から47年にかけての冬は、われわれにとって愉快なものでした。
われわれはフェリスとミゲルのダンス・ショウを見に行きました。
そこではダンスの間に、最高の国民歌手が、東洋的仕種で登場しました。
踊り手は、複雑なステップを続け、その複雑さは、われわれが三つの異なつたリズムを聞いているような気にさせる程のものでした。
すなはち、歌い手は自分のやり方を通し、ギターは独立し、踊り手は完全に音楽と無関係なように、手を打ち足を踏み鳴らしたのです。
老いていますが、優れた国民歌手であるプラネタが訪れ、われわれのために歌ってくれた』(Mikhail Ivanovich Glinka,Memoirs,translated by Richard B. Mudge,Oklahoma,1963,p.206)
エル・プラネタ(1785〜1860)は、トゥリアーナの出身であり、フラメンコに今日も残っている、ジプシー歌謡の“ポロの王”として有名でした。
グリンカは、特にムーア人の占領時代のなごりである、この音楽の東洋的な響きに感動しました。1840年代の別の旅行者は、同様の特徴をカーニャに見出したのです(これは今も残るジプシーのフラメンコの歌の一形態であります)。
『踊りとブランデーとに囲まれた透明な休息に、真のアラビア的gaunia.ラ・カーニャ。
この歌こそ、フリルも飾りボタンもダイアモンドや仔羊皮の手袋も持たない、荒くれた芸人に、たたえられるものなのです。
この人たちの楽譜、そして悲嘆と郷愁は、いつでもアイ!という、高音の合い言葉や叫びに始まり、そして終る。
これら古く久しい、過去のなごりを含んだムーア風メロディは、ロンダ近くの丘の村に、最も良く残っています。
ここには、クリスティナ女王の、ナポリ音楽学校の人間のための道は無い』(Richard Ford,Gathering from Spain,London,1846.p.355)
1800年から1860年までの間の時代には、旅行記の中にそれとうかがうことができる、カンテ・アンダルースのファンダンゴス、マラゲーニャス、ペテネーラス、ロンデーニャ、またさらにカンテ・ヒターノのポロやカーニャを含んだフラメンコの記述があります。
確たる証拠は無いながら、多くの現代の論者は、カンテ・ヒターノを形成している、深い主情的なホンドは、この時期に誕生したのだと主張します。
しかし本当のところは謎のままなのです。
カンテ・ヒターノが、大抵、変わることなく、伴奏無しで歌われたという説が通っていますが、ボロウの証言では、ギターを少くとも時折はジプシーが用いたことは明らかです。
アンダルシアのカンテは、これよりは開放されており、また広範に演奏されました。
この民族の血統は、みすぼらしいものでありましたが、真に尊重されるべきものでした。
アンダルシアの民謡は、過去バンドゥリアやヴァイオリンやタンバリンを含む多様な楽器による伴奏がなされましたが、現在はギターが主導権を握っています。
いかにジプシーとアンダルシア人のカンテの間に関連があり、いかに当時両者の間で影響をしあったかを、推測できる事実が残っています。
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