フラメンコの起源と発展(1)
『フラメンコ』として知られている、大きな音楽分野は、南スペインのアンダルシア地方を中心として、古い歴史を持ち、生活の伝統によって生み出されたものです。
一世紀以上にわたり、フラメンコは歌謡(cante)、舞踊(baile)、ギター演奏(toque)の要素からなる、しっかりと高度に組織化された、芸術形態へと発展してきました。
フラメンコには何百もの異なった形式があって、それぞれが分類されてシギリーヤス、ソレアレス、アレグリアス、マラゲーニャ、ファンダンゴス、サパテアード、ロンデーニャなどと呼ばれています。
それらは特有のメロディーや、リズムや和音構造の違いによって区別されています。そして、それぞれが特有の情緒(時には主題)を持っていて、多くは本質的には似た形式であるが、地方により違いがあります。
フラメンコとその歴史についての研究は、困難さゆえに、また混乱している点があるがゆえに、途惑いがちになります。
一面ではそれは純粋な民族芸能であり、人間の芸術です。それは歓喜や苦難や苦痛の体験、それら人間の体験の根源に横たわる、最も深い感動を与えるものによって形づくられ、練り上げられたものです。
このようにフラメンコはその発祥の地、アンダルシアの地方範囲を遥かに越えて作用する、普遍性のある訴求力があります。
然し、もう一面では、フラメンコが醸す情感は、即興演奏のための広い範囲を許容しながらも、古典楽曲にひとしい、厳格な法則に支配された、非常に複雑さと知的洗練さを持った音楽形式で表現されるのです。
フラメンコは、人間の生き方であり、民俗音楽であり、高度な芸術形態でもあります。純粋な音楽的興味や、フラメンコの複雑さは、はっきりした決定的なフラメンコの性質の解説が可能であり、やる価値のあるものであることを示唆しています。
けれども最良のフラメンコによって醸された深い感動は、このような分析の試みを失敗させます。
偉大な歌手、舞踊家、ギタリスト達が、真に霊感を得たとき、感動と意識的技巧とは音楽的恍惚の中に溶けあうのです。 この状態への到達は、ドゥエンデ(字義は小妖精とか、精神の意)と呼ばれているものに起因すると言われています。
このドゥエンデは、演奏者が最も深く感じ入った状態で没頭するさまや、この状態での聴衆との交感のさまを、ずいぶん神秘的に表現してきました。
この言葉は過去には(音楽を愛する気持ちから、フラメンコ内でよりも、もっと頻繁に知識人によって)、多くの音楽の印象の形態がそうであるように、根本的体験を神秘性にくるんだ傾向で使われ過ぎました。
後になって、マノロ・デ・ウェルバ(彼は彼を同時代の中で傑出したフラメンコ奏者として聞いた人々によって広く尊敬され、また一度は現存する最も偉大なギタリスト、セゴビアによって紹介された)は、この言葉を、それを用いたことで、友人であるガルシア・ロルカを非難し、その正確性をも否定したほどに嫌いました。
しかし彼の否定の中では、この難解な言葉に下した定義こそ最も簡潔なものでしょう。
『ドゥエンデといったものは存在しない。ギタリストから聴く人への感情の伝達があるばかりだ』
『フラメンコ』として知られている、大きな音楽分野は、南スペインのアンダルシア地方を中心として、古い歴史を持ち、生活の伝統によって生み出されたものです。
一世紀以上にわたり、フラメンコは歌謡(cante)、舞踊(baile)、ギター演奏(toque)の要素からなる、しっかりと高度に組織化された、芸術形態へと発展してきました。
フラメンコには何百もの異なった形式があって、それぞれが分類されてシギリーヤス、ソレアレス、アレグリアス、マラゲーニャ、ファンダンゴス、サパテアード、ロンデーニャなどと呼ばれています。
それらは特有のメロディーや、リズムや和音構造の違いによって区別されています。そして、それぞれが特有の情緒(時には主題)を持っていて、多くは本質的には似た形式であるが、地方により違いがあります。
フラメンコとその歴史についての研究は、困難さゆえに、また混乱している点があるがゆえに、途惑いがちになります。
一面ではそれは純粋な民族芸能であり、人間の芸術です。それは歓喜や苦難や苦痛の体験、それら人間の体験の根源に横たわる、最も深い感動を与えるものによって形づくられ、練り上げられたものです。
このようにフラメンコはその発祥の地、アンダルシアの地方範囲を遥かに越えて作用する、普遍性のある訴求力があります。
然し、もう一面では、フラメンコが醸す情感は、即興演奏のための広い範囲を許容しながらも、古典楽曲にひとしい、厳格な法則に支配された、非常に複雑さと知的洗練さを持った音楽形式で表現されるのです。
フラメンコは、人間の生き方であり、民俗音楽であり、高度な芸術形態でもあります。純粋な音楽的興味や、フラメンコの複雑さは、はっきりした決定的なフラメンコの性質の解説が可能であり、やる価値のあるものであることを示唆しています。
けれども最良のフラメンコによって醸された深い感動は、このような分析の試みを失敗させます。
偉大な歌手、舞踊家、ギタリスト達が、真に霊感を得たとき、感動と意識的技巧とは音楽的恍惚の中に溶けあうのです。 この状態への到達は、ドゥエンデ(字義は小妖精とか、精神の意)と呼ばれているものに起因すると言われています。
このドゥエンデは、演奏者が最も深く感じ入った状態で没頭するさまや、この状態での聴衆との交感のさまを、ずいぶん神秘的に表現してきました。
この言葉は過去には(音楽を愛する気持ちから、フラメンコ内でよりも、もっと頻繁に知識人によって)、多くの音楽の印象の形態がそうであるように、根本的体験を神秘性にくるんだ傾向で使われ過ぎました。
後になって、マノロ・デ・ウェルバ(彼は彼を同時代の中で傑出したフラメンコ奏者として聞いた人々によって広く尊敬され、また一度は現存する最も偉大なギタリスト、セゴビアによって紹介された)は、この言葉を、それを用いたことで、友人であるガルシア・ロルカを非難し、その正確性をも否定したほどに嫌いました。
しかし彼の否定の中では、この難解な言葉に下した定義こそ最も簡潔なものでしょう。
『ドゥエンデといったものは存在しない。ギタリストから聴く人への感情の伝達があるばかりだ』
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