宗子
太陽は沈んだばかりで、町をとりまいてゐる山並の稜線からはオレンジ色の光が流れ、中空にまで渡つてゐた。
澄み切つた空だつた。
このうす青色と、オレンジ色とが溶け合ふ時が、空の一番優しい時だと宗子は思ふ。
宗子は晴れた日の、太陽が沈んだ後の空が好きだ。
長いこと空を眺めてゐた。
黒い鉄の柵の上に腕を組み、背筋をのばして立つてゐた。
屋上には宗子の他には誰もゐなかつた。
誰もゐない屋上も、宗子は好きだ。
吹いてくる風が、しだいに冷たくなつてくる気配を感じるのも好きだ。
学校は高台にあり、屋上から町並が一望された。
黒々とした民家の屋根が、折り重なつて北から西へ広がつてゐる。
扇のやうに広がつた町は、その向かうで山並に途切られてゐる。台地にできた町は、山の囲いの中にあり、宗子は箱庭のやうにかわいらしい風景だと思ふ。
学校の後ろからは、すぐになだらかな斜面がはじまり、小高い丘をなしてゐた。丘の中腹までは畑が広がり、それより上は潅木の茂りになつてゐる。
その丘の向かうに、おそらく町をとり巻いてゐる山並の続きがやはり輪を描いてゐるだらう。
宗子は丘の向かうの風景を見たことがなかつた。
けれどもおそらくあの山並は正しい円を描き、自分がゐる学校も、そして丘も、箱庭の世界なのだと思つてゐる。
丘の向かうで山並が途切れ、そこから新たに別の町が続いてゐるとは思へなかつた。実際、宗子がこの町からどこかの土地に出かける時は、必ず列車は二つのトンネルをくぐつたのである。
宗子の頭上を越えて、郭公が真直に飛んだ。
羽音に気づいて頭を挙げると、鳥の腹の縞模様と、オレンジ色のちぎれ雲が見えた。
首を巡らして、飛ぶ鳥を追つた。鳥は、町の上まで飛んで行き、それから右に方角を換へた。
その先には公園がある。けれども池も芝生も、そこにあるブランコもベンチも松の林に遮られて見えなかった。
黒つぽい緑の松の葉の向かうに、鳥は見えなくなつた。
鳥が消えたあたりから、煙が流れてゐる。
ゆつくり煙が湧き上がり、松の群立ちをおおひ、そして空へと上り、町の方に流れていく。
松の花粉だつた。あるかなしかの夕方の冷えた風に、花粉はおだやかに流れてゐる。そしてそれは拡散し、その縁が見定められないままに空に溶けていく。
あの花粉はどこまで飛んでいくのだらう、と宗子は思ふ。
この屋上にも少しは来るだらうか。
宗子はふと花粉のにほひを感ずる。ほろ苦い甘味のこもつた花粉のにほひが風の中にふくまれてゐる気がする。
宗子は思ひだす。こんな光景の中で、このやうな空の下で、やはり花粉が煙のやうに舞ふのを見たことがある気がする。
いつの頃かははつきりとはしないがそれが遠い日であることはたしかだ。
確かにあつた遠い日の自分の姿を思ひ出すことができる。
いつか遊んだことがある。
日だまりの中に、山積みされたカラス麦の藁束によじ上つて息苦しくなりさうな歓喜に包まれて遊んだことがある。
日なたのにほひと藁の枯れた甘いにほひとが宗子の体に染み込んだ。たつた一人でゐる時に、その歓喜が身を包むと、宗子は気が狂つたやうに体を動かしたくなるのだ。
柔らかいけれども、ずいぶんがさつな音をたてる藁の上で、でんぐり返りをしたり、転がりまわつたり、藁の小山の頂にとびついたり、息せき切るまで体を動かさなければならなかつた。
カラス麦の藁は、セーターとズボンに絡みついた。短い髪の毛にもひつついた。
尖つた穂先は、チクチクした。
いつの頃かはわからない。
ずいぶん遠い日のことのやうでもあるし、そんなに昔ではない、ほんの先だつてのことだつたやうな気もする。
そんなわけのわからない歓喜を、けれどもその頃はしばしば覚へてゐたやうだ。
体を動かし、汗ばんでくたくたに疲れ切らなければならなくなる烈しく体を湧き立たせたあの感情を、宗子ははつきりと思ひだす。
それを思ひ起こすと、何だか涙ぐみたくなるやうな気がする。
そしてこんな気持ちも初めてのことではなかつた。
あの歓喜、と呼んでいいのだらうか、とまれ、こみ上げてくるやうな気持ちの去つたあとにも、このやうな一転して水の底に沈み込んだやうな静まり返つた心になるのだつた。
なぜだつたのか宗子は今もわからない。
歓喜のその思ひ出は、宗子に満ち足りた気持ちをもたらす。けれどもそればかりではない。不思議なことだが、このいつくしむものから離れ、あの歓喜が去つた後の、心の底に霜がはりつめたやうな、しめやかな感情だけで生きたいとも思ふのだ。
今、宗子の心には、思ひ出だけがあり、そのいずれもが無い。
それに気づくと宗子は茫然とするのだ。
今からあの時へ、そしてあの時から今へ、
深い時の流れが、怖いもののやうに横たはつてゐるのを感じるからである。
たつた三月ほど前に卒業したこの小学校が、遠のいてゆく。
屋上からの眺めは、過去と現在と未来とを結ぶ橋の上から見る風景のやうだ。
宗子は口の中で、小さく、さよなら、と、つぶやいた。
テクノラティプロフィール
太陽は沈んだばかりで、町をとりまいてゐる山並の稜線からはオレンジ色の光が流れ、中空にまで渡つてゐた。
澄み切つた空だつた。
このうす青色と、オレンジ色とが溶け合ふ時が、空の一番優しい時だと宗子は思ふ。
宗子は晴れた日の、太陽が沈んだ後の空が好きだ。
長いこと空を眺めてゐた。
黒い鉄の柵の上に腕を組み、背筋をのばして立つてゐた。
屋上には宗子の他には誰もゐなかつた。
誰もゐない屋上も、宗子は好きだ。
吹いてくる風が、しだいに冷たくなつてくる気配を感じるのも好きだ。
学校は高台にあり、屋上から町並が一望された。
黒々とした民家の屋根が、折り重なつて北から西へ広がつてゐる。
扇のやうに広がつた町は、その向かうで山並に途切られてゐる。台地にできた町は、山の囲いの中にあり、宗子は箱庭のやうにかわいらしい風景だと思ふ。
学校の後ろからは、すぐになだらかな斜面がはじまり、小高い丘をなしてゐた。丘の中腹までは畑が広がり、それより上は潅木の茂りになつてゐる。
その丘の向かうに、おそらく町をとり巻いてゐる山並の続きがやはり輪を描いてゐるだらう。
宗子は丘の向かうの風景を見たことがなかつた。
けれどもおそらくあの山並は正しい円を描き、自分がゐる学校も、そして丘も、箱庭の世界なのだと思つてゐる。
丘の向かうで山並が途切れ、そこから新たに別の町が続いてゐるとは思へなかつた。実際、宗子がこの町からどこかの土地に出かける時は、必ず列車は二つのトンネルをくぐつたのである。
宗子の頭上を越えて、郭公が真直に飛んだ。
羽音に気づいて頭を挙げると、鳥の腹の縞模様と、オレンジ色のちぎれ雲が見えた。
首を巡らして、飛ぶ鳥を追つた。鳥は、町の上まで飛んで行き、それから右に方角を換へた。
その先には公園がある。けれども池も芝生も、そこにあるブランコもベンチも松の林に遮られて見えなかった。
黒つぽい緑の松の葉の向かうに、鳥は見えなくなつた。
鳥が消えたあたりから、煙が流れてゐる。
ゆつくり煙が湧き上がり、松の群立ちをおおひ、そして空へと上り、町の方に流れていく。
松の花粉だつた。あるかなしかの夕方の冷えた風に、花粉はおだやかに流れてゐる。そしてそれは拡散し、その縁が見定められないままに空に溶けていく。
あの花粉はどこまで飛んでいくのだらう、と宗子は思ふ。
この屋上にも少しは来るだらうか。
宗子はふと花粉のにほひを感ずる。ほろ苦い甘味のこもつた花粉のにほひが風の中にふくまれてゐる気がする。
宗子は思ひだす。こんな光景の中で、このやうな空の下で、やはり花粉が煙のやうに舞ふのを見たことがある気がする。
いつの頃かははつきりとはしないがそれが遠い日であることはたしかだ。
確かにあつた遠い日の自分の姿を思ひ出すことができる。
いつか遊んだことがある。
日だまりの中に、山積みされたカラス麦の藁束によじ上つて息苦しくなりさうな歓喜に包まれて遊んだことがある。
日なたのにほひと藁の枯れた甘いにほひとが宗子の体に染み込んだ。たつた一人でゐる時に、その歓喜が身を包むと、宗子は気が狂つたやうに体を動かしたくなるのだ。
柔らかいけれども、ずいぶんがさつな音をたてる藁の上で、でんぐり返りをしたり、転がりまわつたり、藁の小山の頂にとびついたり、息せき切るまで体を動かさなければならなかつた。
カラス麦の藁は、セーターとズボンに絡みついた。短い髪の毛にもひつついた。
尖つた穂先は、チクチクした。
いつの頃かはわからない。
ずいぶん遠い日のことのやうでもあるし、そんなに昔ではない、ほんの先だつてのことだつたやうな気もする。
そんなわけのわからない歓喜を、けれどもその頃はしばしば覚へてゐたやうだ。
体を動かし、汗ばんでくたくたに疲れ切らなければならなくなる烈しく体を湧き立たせたあの感情を、宗子ははつきりと思ひだす。
それを思ひ起こすと、何だか涙ぐみたくなるやうな気がする。
そしてこんな気持ちも初めてのことではなかつた。
あの歓喜、と呼んでいいのだらうか、とまれ、こみ上げてくるやうな気持ちの去つたあとにも、このやうな一転して水の底に沈み込んだやうな静まり返つた心になるのだつた。
なぜだつたのか宗子は今もわからない。
歓喜のその思ひ出は、宗子に満ち足りた気持ちをもたらす。けれどもそればかりではない。不思議なことだが、このいつくしむものから離れ、あの歓喜が去つた後の、心の底に霜がはりつめたやうな、しめやかな感情だけで生きたいとも思ふのだ。
今、宗子の心には、思ひ出だけがあり、そのいずれもが無い。
それに気づくと宗子は茫然とするのだ。
今からあの時へ、そしてあの時から今へ、
深い時の流れが、怖いもののやうに横たはつてゐるのを感じるからである。
たつた三月ほど前に卒業したこの小学校が、遠のいてゆく。
屋上からの眺めは、過去と現在と未来とを結ぶ橋の上から見る風景のやうだ。
宗子は口の中で、小さく、さよなら、と、つぶやいた。
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