グーズベリー
豆畑の隅にグーズベリーの一叢があり、初夏から盛夏へと季節の光が濃く、烈しくなるにつれて小指の先程の大きさの実が熟してくる。
ビー玉に似た緑色の実生は、細やかな棘のある小枝に房をなして結ばれる。初夏には白い粉をかむつてゐた実の表皮は、やがてつややかになつて幾条かの筋が浮かびだす。
表皮はいよいよ透明になり、果肉の中の種が見えるまでになり、さらには淡く紅をおびてくる。
僕は鈴なりの実がすべて真紅にまで熟さぬうちから、待ちきれなくてしばしばその叢に行つてみるのだつた。
夕暮れ時、その日もまた僕は一人でグーズベリーの小叢に出かけ、数粒の真紅の玉や、まだほんのりとした紅味をおびたばかりのものや、まだやつと透明な表皮になつたやうな実を毟てはほおばつてみた。未熟な実が毒であるとは聞かされてゐたし、それを疑つてゐるわけではなかつたが、僕はこの透き通り始めたばかりのガラス玉のやうな実が好きだつた。
豆畑はなだらかな斜面にあり、斜面の下に春先にはその縁にリュウキンカの咲く小川が流れてゐた。川の向かうは急な斜面で、熊笹と潅木が繁茂してをり、その斜面の中腹を温泉に登る道が横切つてゐた。
をりをりに目を上げ、夕焼けに濃く染まつた空を見上げたり、夜鷹が馬追ひの馬をせきたてる時に発する舌打ちのやうに啼きながら中空を横切るのを眺めた。
野鳥の声と、虫の声とは途切れなくあたりを満たし、それらの音の向かうに斜面を這ひ上つて来る水の響きがあつた。
のんのんと草いきれはまだ膨れあがり、その濃厚な芳香の中にしやがみ込んで、鳥と虫達の啼き声と、しめやかな水の音を聞いてゐると、胸の中に深々とした静けさが満たされてきた。
それは全身の隅々まで速やかに行きわたり、次いで不意に大きな声で叫びたいやうな、制することが困難なほどな強い力が全身に降り注ぐのを覚へるのだつた。
僕は立ち上がつた。
夕焼けが、風になぶられて広がる層雲を染めて、ますます広く天を覆ひ、佇立してゐる僕の胸元までその炎の色が降下してくるやうな気がした。
僕の幻想を途切らせたのはあるか無きかの風にまじつた歌声だつた。
僕は向かひ側の斜面の山道に目をやつた。潅木の合ひ間からちらちらと数人の人影が見えた。いづれも白いシャツを着てゐて、中に一人だけ水色の夏服があつた。
温泉から帰る町の人たちだつた。歌声と砂里を踏む乾いた足音は、やがて僕がゐる真上までやつて来たが、誰も僕には気づかなかつた。夜も近いその時刻に、いかつい登山姿ではなく、まるで町中を行くやうな華やかな軽装で山道を歩く人たちは、狐の嫁入りの行列のやうな眺めだつた。
歌声は大人の女のそれだつた。
度胸の入つた大声で、月がとつても青いから、と歌つてゐた。僕は夏草の中に立ちつくし、行列を見送つた。歌声は終はらなかつた。遠のき、足音が聞こえなくなつても、歌声だけはながながと聞こえた。
人々の気配がすつかり失はれるまで、僕はそこに立ちつくしてゐた。
とり残されたもののやうな、得体の知れない感情がゆつくりと胸の中にわき上がつて来た。鳥と虫の声、水の音、それから液体のやうに濃い草いきれが、親密に身体を包むのを覚へた。
僕はグーズベリーの実の房を一掴み毟り、それからゆつくりと歩き始めた。
テクノラティプロフィール
豆畑の隅にグーズベリーの一叢があり、初夏から盛夏へと季節の光が濃く、烈しくなるにつれて小指の先程の大きさの実が熟してくる。
ビー玉に似た緑色の実生は、細やかな棘のある小枝に房をなして結ばれる。初夏には白い粉をかむつてゐた実の表皮は、やがてつややかになつて幾条かの筋が浮かびだす。
表皮はいよいよ透明になり、果肉の中の種が見えるまでになり、さらには淡く紅をおびてくる。
僕は鈴なりの実がすべて真紅にまで熟さぬうちから、待ちきれなくてしばしばその叢に行つてみるのだつた。
夕暮れ時、その日もまた僕は一人でグーズベリーの小叢に出かけ、数粒の真紅の玉や、まだほんのりとした紅味をおびたばかりのものや、まだやつと透明な表皮になつたやうな実を毟てはほおばつてみた。未熟な実が毒であるとは聞かされてゐたし、それを疑つてゐるわけではなかつたが、僕はこの透き通り始めたばかりのガラス玉のやうな実が好きだつた。
豆畑はなだらかな斜面にあり、斜面の下に春先にはその縁にリュウキンカの咲く小川が流れてゐた。川の向かうは急な斜面で、熊笹と潅木が繁茂してをり、その斜面の中腹を温泉に登る道が横切つてゐた。
をりをりに目を上げ、夕焼けに濃く染まつた空を見上げたり、夜鷹が馬追ひの馬をせきたてる時に発する舌打ちのやうに啼きながら中空を横切るのを眺めた。
野鳥の声と、虫の声とは途切れなくあたりを満たし、それらの音の向かうに斜面を這ひ上つて来る水の響きがあつた。
のんのんと草いきれはまだ膨れあがり、その濃厚な芳香の中にしやがみ込んで、鳥と虫達の啼き声と、しめやかな水の音を聞いてゐると、胸の中に深々とした静けさが満たされてきた。
それは全身の隅々まで速やかに行きわたり、次いで不意に大きな声で叫びたいやうな、制することが困難なほどな強い力が全身に降り注ぐのを覚へるのだつた。
僕は立ち上がつた。
夕焼けが、風になぶられて広がる層雲を染めて、ますます広く天を覆ひ、佇立してゐる僕の胸元までその炎の色が降下してくるやうな気がした。
僕の幻想を途切らせたのはあるか無きかの風にまじつた歌声だつた。
僕は向かひ側の斜面の山道に目をやつた。潅木の合ひ間からちらちらと数人の人影が見えた。いづれも白いシャツを着てゐて、中に一人だけ水色の夏服があつた。
温泉から帰る町の人たちだつた。歌声と砂里を踏む乾いた足音は、やがて僕がゐる真上までやつて来たが、誰も僕には気づかなかつた。夜も近いその時刻に、いかつい登山姿ではなく、まるで町中を行くやうな華やかな軽装で山道を歩く人たちは、狐の嫁入りの行列のやうな眺めだつた。
歌声は大人の女のそれだつた。
度胸の入つた大声で、月がとつても青いから、と歌つてゐた。僕は夏草の中に立ちつくし、行列を見送つた。歌声は終はらなかつた。遠のき、足音が聞こえなくなつても、歌声だけはながながと聞こえた。
人々の気配がすつかり失はれるまで、僕はそこに立ちつくしてゐた。
とり残されたもののやうな、得体の知れない感情がゆつくりと胸の中にわき上がつて来た。鳥と虫の声、水の音、それから液体のやうに濃い草いきれが、親密に身体を包むのを覚へた。
僕はグーズベリーの実の房を一掴み毟り、それからゆつくりと歩き始めた。
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