ブレリアス・朱夏(2)

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ブレリアス・朱夏

      (2)
 汚物の匂ひが、簾を降ろした窓から流れ込んで来た。窓は川に向けて、すつかり開かれてゐた。川を渡つてくる風は湿つてゐて、嗅いだ瞬間背筋を震はせるやうな、いがらつぽい腐敗の匂ひを含み、その中におびただしい数の蝿が飛び廻つてゐる。

 白い塗料の剥げ落ちた、四角の小さいテーブル。緑色のビニール貼りの固い椅子。数人の男たちが食事をしてゐた。男たちの右手は食物を口に運ぶのと、蝿を追ひ払ふのとで忙しく上下左右に振まわされる。橙色の箸が、まるでその両方の道具のやうにひらめく。

「おつさん、どうにかならないもんかなあ、この蝿の多いことつたら」

 男の一人が眉を顰めてつぶやく。唐辛子をまぶした白菜の漬物を一心にぶつ切りにしてゐたおやじが顔を上げてにやりと笑つた。

「ここじやあどこだつてこんなもんや。なにわしだつて色々やつてみてるんや、殺虫剤まいたり、ほら、そんなもんぶらさげたりしてなあ」

 さう言つて彼は右手の庖丁で、天井からぶらさげた蝿取りリボンを指した。リボンは黄土色の地肌が見えなくなる程に、蝿がびつしり付着してゐる。

「こんなもんじや仕様がねえさ。ほら、子供が持つてる虫とりの網があるだらう、あいつを買つてきてふり回した方が余程いいぜ、ここの蝿の多さといつたら」

 店の主はまたニヤリと笑つた。

「それは工夫や、ひとつやつてみまひよか」

 紺色の作業服を着た男達は、誰一人笑はなかつた。その方法を提案した男も笑ひはしなかつた。みんなうるさく飛び廻る蝿には、完全にうんざりしてゐたのだつた。
 男達の不愉快さうな眉間に縦皺をよせた表情に気がついて、主人も慌てて笑ひをひつこめた。さうして自分も不愉快さうな顔で飛びまわる蝿をながめた。それが主人の、自分に向けられる非難を少くしやうといふ工夫だつた。

「ええつ、これだからなあ」

 店の隅のテーブルにゐた男が頓狂な声で叫ぶと、主人は警戒するやうな目でその男を見やつた。作業服のボタンを全部はずして、胸から腹までさらけたその男は、鷲掴みにした箸の頭で、テーブルをとんとんと叩いてゐる。
 他の客も一斉にその男の方を見た。

 男は上目使ひをして、顰めた眉間から主人を黙つてにらんだ。主人はかすかな狼狽の色を見せて何か言ひさうにしたが、突然口をつぐんでしまふ。ほんの短い空白の時が店の中に生まれた。


 いささかの風が吹いてきたらしい。窓枠に簾が小さな音をたてた。湿つた音だつた。然し店の中に風は吹き込んでこなかつた。簾を透して見える光景は、幽かに簾の青い塗料をにぢませてをり、激しい日光に曝されて白つぽい筈の水面が、春霞の底にあるやうに見える。

 少年の座つた位置から簾越しに眺めることが出来るのは、水面と対岸のコンクリートのテトラポットの群れだけだつた。簾の青味を帯びたそれらは、少年が少しでも顔を動かせば簾の骨がちらついて、ホロスコープの絵柄が変はる瞬間のやうだが、むろん別の物になるわけはない。

 子供がゐた。彼はテトラポットの上に裸で立ち、右手を前方に突き出してゐる。魚を釣らうとしてゐるのだ。日盛りの中で、川面の湿り気をいつぱいに含んだ風の中で、男の子はじつと立つてゐる。テトラポットを台座に、石像のやうだ。

 流れの色は、川の中央を境にして色が異なつてゐる。こちら側の近くでは水は白つぽく汚濁し、テトラポットの腹を濡らしてゐる水は深い緑色をしてゐる。家並びの住人が流す汚物が、川を色分けしてゐるのだ。

 今もこちらの岸近くを、新聞紙にくるまれたものがゆつくりと流れてゐる。破れて綿がはみ出した小さな赤い座敷団が、浅瀬の底をひつかかりながら移動してゐる。潰れた石油罐が石にひつかかつて、ひとところで揺れてゐる。

 時折陽光が罐のつぶれたくぼみに反射してチカチカと輝き、窓の簾を通して少年の目の中に飛び込んで来る。まばたいた瞬間、テトラポットの上の少年の右手がゆらりと持ち上がる。石像が壊れる。竹の棒の先には何も見えない。

 子供は竿を足元に置いてしやがみ込む。おそらく彼の目にはテトラポットのすぐ傍を泳ぐ魚影が見えてゐるのだらう。膝をかかへて水面を覗き込んでゐる。

 「よく見てみろよ、畜生め」

不意に男の声が店の中に響き渡り、少年は我に帰つた。

「蛆虫のくつついたものなんか客に出しやがつて」

鉄屑の赤錆色の粉塵のついた顔で、男は主人を睨めつけた。

「見てみい、突つ立つてをらんと」

 男は急に上体を真直にし、皿をつかんだ左手をぐつと主人の前にさしのばした。主人は溜息のやうな音を喉の奥でたてて、若い男にじつと目をやつたまま菜つぱを刻んでゐた手をやすめた。前垂れで両手をもむやうにしてふきながら、おずおずと進み出た。

 鉢巻きも開襟シャツも半ズボンも長靴も一様にくたびれた服装のなかで、ひとつだけ真白で皺すらもなかつた前垂れに、たちまち唐辛子の粉がいつぱいこびりついたが、主人はそれを気にかける余裕もない様子で、頬のあたりを緊張させてゐた。それから遠慮でもするやうに、男が左手で突き出してゐる皿を受け取ることなくのぞき込んだ。鮭の切り身をぐつと見すゑた。そして固くこわばらせてゐた頬を少じずつゆるめて笑つた。

「何がおかしいんや。よく見い、おつさん。こんなもん出しといて平気で笑つてすませるんかあ」

 主人は一瞬浮かべたばかりの笑みをそのまま残さうか、ひつ込めやうか逡巡し、それが狼狽の色を仄見せた。


「にいさん、こら違ふわ」

「何い、よく見てや、こらこらここや、ここんとこ。皮と身ィのくつついたここんとこ、よく見て物言へ、アホか」

 主人は一呼吸をいて、今度は自信を持つたやうな素振りではつきりした笑みを浮かべて言つた。

「いや、こら違ふわ、蛆虫ちがふわ。まァだ生んだばつかしの卵やんか」

男はいきなり唸り声を上げて、皿を主人の足元に叩きつけた。鮭の切り身がおどり上がつて、主人の長靴のつま先の上に乗つた。

「アホォかあ、何でお前に卵と蛆虫の講釈してもらはならんねん。蛆やろが卵やろがおんなしや。お前んとこは蛆は食はせんが、蝿の卵はシャケにくつつけて食はしとるんか。ヘラヘラ笑ひくさつて、こら違ふはたあ、何ぢやあ」

「ごちやごちや言はんとよろし」

 主人はすつと顔の色を変へて男を睨んだ。

「ええ格好して、たかが虫の卵一つでおらび立てて威張りくさるな。ここぢやあどこかてこんなもんや。お前かて家に帰つたら、おつかあにはそれこそ蛆虫の素通りしたやうなオマンマしか食はしてもらへんくせして、どこのボンボンぶりやがんのや」

 男の右手がひらめいて、主人の顔を張りとばした。突き出た主人の腹に、水の入つたコップが投げつけられ、床に落ちてボシャリと音たてて割れた。

「たかが虫の卵たあ、何ぢやあ。虫の卵ちやふわ。蝿の卵や。蛆虫マンマ食ふたるとは何やあ」

 男は怒鳴りながら、床に落ちた皿のかけらを蹴飛ばした。白い破片が主人の突き出た下腹にぶつかつた。

「ばかにしくさるな。俺をなめる気ぃかあ」

主人の頬は紅潮し、両眼は開ききつて男をにらみつけてゐる。

「手前の落度を棚に上げてその言ひ草は何や、頭の一つも下げられへんのか」


「下げられんといふんなら下げたるわ」

 いきなり横合ひから別の若い男 が割り込み、こぶしで主人の顔をなぐりつけた。店の中にゐた紺色の作業服の男達が、一斉に全員椅子から腰を上げた。

 少年はまだ座つてゐる。しかし急いで食ひ終へやうと思ふ。

 テーブルの上の皿をとり上げて、残つてゐた煮付けをすつかり食ひ、その間中次に起こることを見てゐた。

 男達が主人を取り巻く。テーブルの上に目を落とし、まだ何か残つてゐないかを調べる。みそ汁の椀を持ち上げてぐつと飲みつくす。
 椀を置くついでに、沢庵の三きれが数珠つなぎになつたのをそのまま指でつまむ。この店の包丁はあまり良く切れていない。

 もう何も無い。この店の沢庵はパリパリしてゐない。舌の上でヌルリといやな感触がある。なめくじのやうだ。しかし毎日食つて来たのだ。

 おやじは気の毒だ、と少年は思ふ。しかしおやじはこれも覚悟しながら商売してるのだ。いい度胸だ。

 その一人言が頭の中を巡り切らぬうちに、円形になつて主人をとりまいてゐた男達が、それぞれ力のこもつた動きを始める。鈍い音がする。男達が怒鳴り、主人がうめく。床板がきしみ、テーブルが揺れる。箸立てが倒れて箸が床に散る。箸に足をとられた男が腰砕けになつてテーブルの縁に背骨をぶつけた。コップが倒れて零れた水が少年の膝に滴つた。

 少年は立ち上がつて、テーブルに腰をぶつけた男の背中をついた。男が振り向いた。この男は、少年がリンチのお返しにガソリンを背中から浴びせてマッチを振りかざして、おどかしてやつたことのある男だ。

 「な、なんや」と男は言つた。あれ以来初めて話しかけられた言葉だつた。男は少年の顔から目をそらす。工場ですれ違ふ時もさうだ。俺の額のかさぶたの色が濃いせいだらうと少年は思ふ。

「ズボン、濡れたぞ」

「あ、すんまへん」

 男達の動きが止んだ。みながこつちを見た。
 少年はポケットから小銭を取り出して、臀もちをついてゐる主人を見た。

「金、ここに置くから」

「あ、あんちやん、おおきに。」

 おやじはびつくりしたやうに少年を見上げてゐる。

「くそ、おまえらはなあ、ぶつ殺すぞお」

おやじはゆつくりと体を起こした。男達はぼんやりそれを見てゐる。

 店を出て、バラックにはさまれたトンネルのやうな通路を少年は急いで歩いた。もうあちこちの戸口から住人たちが顔を出して、店から出て来た彼を見てゐる。それらの視線を無視してさつさと歩いた。一番近い出口からトンネルを抜け出した。

 真白な夏の光が、途端に頭上からふりかかる。光に噎せて、息がつまつた。

 額に右手が自然に動いた。目の奥がちかちかする。錆のにほひがする。汚物の饐ゑたにほひもする。腹に入れたばかりのものたちが、異物感を抱かせる。

 歩をゆるめた。まだ午後の作業が始まるまでには大分間がある。目と鼻の先の工場に、すぐさま駆け込む必要はなかつた。

 土堤を下り、それから左に曲がつてバラック街と平行に歩いた。土堤の下の道は赤土がひび割れて白つぽい。道のくぼみに洗濯水でも流れて来たのだらう、水たまりができてゐる。

 まるで夕立ちの後のやうに、道のそこここに排水の水たまりがあり、それらのすべてに赤銹と油皮膜が、どろりとした汚れた虹色になつて浮かんでゐる。
 巨大な巨大なアミーバの動めきのやうな光の反射が、ぎらりと目に飛び込む。

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