林檎
十五の歳から、一人暮らしを始めたのだが、何しろあのころはむやみに腹が減つた。
今もさうだが、そのころも深夜になつてから空腹を満たすために出歩くのだつた。だが、当時は飲食店に入るといふことは無かつた。
僕はしばしば、その店で食べものを買つた。
たいていは林檎を幾つか買ふのだ。その店は、その町のその界隈では、唯一、夜遅くまで店を開いてゐたのである。
林檎は、実によく食べた。
安くて量のある食べものといへば、とりあえず林檎がさうだつたから。はつきりとその値段を覚えてゐないのが残念だが、とにかくしよつちゆう、そのころの僕にも買ふことができ、そして受けとる時の充実した重たさがある、重要な食糧だつたのだ。
林檎は、その店先に年中あつた。
青い夏林檎、黄色いインド林檎、けれどもなぜだか、やはりつややかな紅の国光の色彩が、あの店にはふさはしい気がしてならない。夏林檎も、インド林檎も、その芳香を思ひ出すことは容易だが、その店で深々と吸ひ込んだのは、秋の国光の匂ひの時が、多かつたのだらう。
さうだ、あの店を思ひ出すとき、それは秋を思ひ出すときでもある。あの深夜の店先は、秋の深夜以外ではないやうな気すらする。
僕は今でも時々、その店の夢を見る。不意に訪れるその夢に、愉しくも、儚いもの、それが夢なのだといふことを悼まずにはゐられない。
その思ひは、もしかしたら、あの店の夢が、秋を感じる瞬間であるからかもわからない。
夢の中で、僕は店の中に入る。
薄明かりが、果物を並べた木の台を照らしてゐる。夜の果物の、濃密な芳香が満ちてゐて、肺の中に一瞬にして酔いを誘うような、眩暈を引き寄せるやうな、それでゐてこの上なく、しつかりした平安の気持ちを齎してくれたのだ。
店の奥から、おばさんは、顔なじみになつた僕に、かすかに、やはらかな笑みを浮かべて現れるのだつた。
腹を減らした僕は、髪をひつつめた、白くて小さいおばさんの顔を見ると、どんなに安堵したかわからない。
おばさんは、必ず一つか二つの林檎をおまけにして、新聞紙の袋の中につけ足してくれるのだつた。さうしてこのおばさんからのおまけには、その当時の僕も、素直に嬉しく思ふことができたのだ。
未だかつて、人から物を貰つて嬉しかつたのは、ただ一度だけ、このおばさんのおまけが唯一無二のもののやうな気さへする。
「よつこらしよ」とか「どつこいしよ」とか言ひながら、おばさんはふくらんだ袋を、僕に手渡してくれた。おばさんのその言葉が似合ふほどな重たさが、ぼくが受け取る林檎の袋にはあつた。
あのおばさんは、いつたい当時いくつぐらいの人だったのだらう。あるひは今の僕よりも、若い年齢であつたかもわからない。
僕は時々その店を夢に見、その夢を見るたびに、何だかかうして夢に見てゐるやうに、見やうとすればいつでも必ず見ることができる、唯一の夢、それがこの秋の夜の小さな果物店の夢なのだといふ思ひを、通奏低音のやうに、夢のさらに向こうの意識の奥底で感じてゐるのだ。
テクノラティプロフィール

十五の歳から、一人暮らしを始めたのだが、何しろあのころはむやみに腹が減つた。
今もさうだが、そのころも深夜になつてから空腹を満たすために出歩くのだつた。だが、当時は飲食店に入るといふことは無かつた。
僕はしばしば、その店で食べものを買つた。
たいていは林檎を幾つか買ふのだ。その店は、その町のその界隈では、唯一、夜遅くまで店を開いてゐたのである。
林檎は、実によく食べた。
安くて量のある食べものといへば、とりあえず林檎がさうだつたから。はつきりとその値段を覚えてゐないのが残念だが、とにかくしよつちゆう、そのころの僕にも買ふことができ、そして受けとる時の充実した重たさがある、重要な食糧だつたのだ。
林檎は、その店先に年中あつた。
青い夏林檎、黄色いインド林檎、けれどもなぜだか、やはりつややかな紅の国光の色彩が、あの店にはふさはしい気がしてならない。夏林檎も、インド林檎も、その芳香を思ひ出すことは容易だが、その店で深々と吸ひ込んだのは、秋の国光の匂ひの時が、多かつたのだらう。
さうだ、あの店を思ひ出すとき、それは秋を思ひ出すときでもある。あの深夜の店先は、秋の深夜以外ではないやうな気すらする。
僕は今でも時々、その店の夢を見る。不意に訪れるその夢に、愉しくも、儚いもの、それが夢なのだといふことを悼まずにはゐられない。
その思ひは、もしかしたら、あの店の夢が、秋を感じる瞬間であるからかもわからない。
夢の中で、僕は店の中に入る。
薄明かりが、果物を並べた木の台を照らしてゐる。夜の果物の、濃密な芳香が満ちてゐて、肺の中に一瞬にして酔いを誘うような、眩暈を引き寄せるやうな、それでゐてこの上なく、しつかりした平安の気持ちを齎してくれたのだ。
店の奥から、おばさんは、顔なじみになつた僕に、かすかに、やはらかな笑みを浮かべて現れるのだつた。
腹を減らした僕は、髪をひつつめた、白くて小さいおばさんの顔を見ると、どんなに安堵したかわからない。
おばさんは、必ず一つか二つの林檎をおまけにして、新聞紙の袋の中につけ足してくれるのだつた。さうしてこのおばさんからのおまけには、その当時の僕も、素直に嬉しく思ふことができたのだ。
未だかつて、人から物を貰つて嬉しかつたのは、ただ一度だけ、このおばさんのおまけが唯一無二のもののやうな気さへする。
「よつこらしよ」とか「どつこいしよ」とか言ひながら、おばさんはふくらんだ袋を、僕に手渡してくれた。おばさんのその言葉が似合ふほどな重たさが、ぼくが受け取る林檎の袋にはあつた。
あのおばさんは、いつたい当時いくつぐらいの人だったのだらう。あるひは今の僕よりも、若い年齢であつたかもわからない。
僕は時々その店を夢に見、その夢を見るたびに、何だかかうして夢に見てゐるやうに、見やうとすればいつでも必ず見ることができる、唯一の夢、それがこの秋の夜の小さな果物店の夢なのだといふ思ひを、通奏低音のやうに、夢のさらに向こうの意識の奥底で感じてゐるのだ。
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