干し物

ここでは、 干し物 に関する情報を紹介しています。
 勤めと学校の関係で、うちが洗濯をするのんは、このアパートが寝に就くやうになる時間やつた。

 夏はそれほどでもないのんやけど、冬場は疲れて帰つてきたとこで冷たい水仕事にかからなあならん。うつとうしいけど、仕方あらへん。

 うちが洗いものを済ませ、それを物干場に運んで竹竿に通しとると、必ずとんとんと階段を上つてくる足音がしまんねん。大儀さうな、急な階段が辛さうな、重たくてゆつくりした足音や。時にはそれにしわぶく音も混ざるんや。

 うちはそれを聞くと、手を休めて、その足音の本人が物干場に現れるのを待つ具合になるんや。余りにもツラさうな足音やから、今日も無事にここまで上つてこれるかしらんといつた感じがするからや。

 その人はうちの隣の部屋に一人で住んではるAはんや。Aはんは八十歳を過ぎたかと思はれる、痩せた腰の曲つた背の低い御老人や。

 物干場に上がると、そこにはたいてい数枚の取り込み忘れた洗濯ものがあるんや。それらは明朝にでも思いだされたもんにしまいこまれるもんなのやろけど、Aはんだけは毎夜、うちが物干場に上がる時刻に、自分とこの洗濯もんを取りに来るのんやつた。

 あんまり連夜にわたつて物干場で顔をあはせるので、うちとAはんとはチョコッとずつ口をきくやうになつたんや。

 Aはんがそないな夜更けに洗濯物を取りに来るのんは、朝おそくまで床についとつて、昼近うになつてから洗濯をするので、今頃やつてくればちやうど乾いとるからや、ちうことやつた。

 Aはんは几帳面な人らしく、毎日洗濯をするので、その数も二三枚ぐらいが普通やつたけど、その中に必ず浴衣が一着入つておつたんや。
 どうしてそないに浴衣を洗濯する必要があるのんやろ、そないにも神経質な人なんやろかと思つて、うちは訊ねたことがあるんや。

 そしたらAはんは答えたんや、自嘲するみたいに。

「なに、ここんとこ毎晩、小便を蒲団の中でしてしまうんのんや。耄碌したら仕事も増えまんな。」

 うちは失礼なことを訊いたと後悔したんやけど、Aはんはむしろ恬淡とした表情やつた。

 なんやら気の毒になつて、毎夜こないな時刻に、急な階段を昇るのんはキツいことはありまへんやろか。あしたからはうちが洗濯物を干しに来よるついでに、Aはんの洗ひ物を持つていつてあげまひよと申し出たのんや。

 と、かすかに笑ひを浮かべて、ほんで「おほきに」つて言つて、
「ほんでも夜の物干台に上がるんは、これはこれで気持のええもんやから、結構や、おほきに」と、おつしゃつたんや。

 ほんまにこないな話しぶりを聞いとると、このAはんがたしかに年老いて弱つとるかもしれへんけれど、どうしても毎夜粗相をするやうには思はれへんのやつた。

 時折しわぶくのが、それでも細く痩せた体には堪えるやうで、ふと風邪をお引きになつたんですかと聞いてみたんや。
 
そしたらAはんはなあ、うちの顔をチラと見て、いやこれも万年病でたいしたことはおまへんのやと答えたのんやつた。

 うちには小さいころ、祖父に可愛がられた記憶がありまんのや。
 ほんでその祖父もうちが高校に通う時分に亡くなつとつたんで、この温和なAはんになんとなしに、親しみを感じるやうになつたんや。
 それで給料日の帰りにはAはんのお土産にお鮨の折詰めを買つて帰つたこともあつたんや。

 戸をトントン叩くと、Aはんの低い声での返事があるんや。

 中に入ると六畳一間にながながと蒲団が敷いてあつて、Aはんは大儀さうに立ち上がつてきまんねん。

 うちはビックリして、お休みの邪魔をして悪かつた、言うて謝つたんやけど、Aはんはやはり恬淡とした表情で、うちのお土産を受け取つてくれたんやつた。
 格別にうれしさうな表情もしまへんかつたけど、うちにはそれは老人の表情には普通なことだと考えたんや。

 Aはんちゅう人はね、あんまし人と話しをするのが好きやないようやつた。

 口調がいつかて重たかつたんも、年とつたせいばかりやなくて、孤独な性格ちうんかいなあ、そのためかもしれへんやん。

 だいぶ親しく顔を会わせるやうになつてもAはんはずつとそないな風やつたんやもん。
 せやからウチたちの会話はいつでも二言三言の、とおりいつぺんの挨拶ていどで、せやし、うちにはいまだにAはんの詳しい身の上やらなんやらはさつぱりわからへんのんや。

 ほんでも一人きりで暮していて寂しいないんやろかと思うやろ。
 せやからちよこつとでも話しの相手をしてやらうと、それからも折々、なんやらの手土産をもつて訪ねてみたんやけど、いつでもあの恬淡とした表情で、来客に夢中になるやうな風にはならへんかつた。
 せやしうちもちよこつとしておいとまんするのんがキマリやつた。

 秋になつてをつたんや。

 うちはその日も学校から帰つて洗濯をし、冷たくなりよつた水道の水に少おし辛くなり、Aはんも一人でこないな仕事をして、御老体に応えるのではないやろかなあとかなんやらと考えたりしてをつたんや。

 物干し台に上がると、秋の深夜の風に肩をすくめたんや。今日もAはんはこの寒い中を物干し台に上がつてくるんやろかと思つたんや。

 いつぞやは夜気に当たるのも気持がええと言つとつたけども、こないに風が冷たくなつてくると辛いもんになるやろうし、今晩はうちが洗い物を竹竿に吊るしとるあいだにAはんがまだ上がつて来んやうやつたら、持つて帰つてあげやうと思つたんや。
 明日からもずつとそないしてやろうと思つたんや。

 月も星もない夜やつた。

 うちは、雨が降るんとちやうやろか、それでなくともきようびは洗い物の乾くのがトロいのにと思つたんや。

 前夜に洗つた薄物が、つぎの夜に取り込もうとしてもまだかすかな湿気が残つとることが、ここ数日続いとつたもんやから。

 昨夜の洗い物を手にしてみると、どうやら今夜はだいじやうぶ、ひとつのこらず、すつきり乾いとるやうや。

 Aはんの浴衣も一番向こうの竿にかかつとるのが白く見えたわ。今夜はAはん、まだ上がつてこなければええな、うちが持つて行つてあげるんやさかいと思い、親切をする前の楽しさをチビッと感じておつたんや。

 暗い夜やつたけど風が吹いとるんやし今夜も洗濯物は乾いてくれるやろうと思ひ、うちは昨夜の干し物をはずしては、新しく洗つたのを一枚一枚竿に掛けていつたんや。

 Aはんが上がつて来ない前にと思ふと、自然に手が急くんや。しまいの洗い物を掛け終わつた時は、秋の夜風のなかで、ちいとばつか汗ばむほどやつたわ。やれやれ、終わつたちうわけや。

 Aはんはまだ来ないし、よかつた、よかつた。
 さあ、物干し台の端のはうにかけてあるAはんの浴衣を取り込んだろかいなと思たんや。いつもやつたら浴衣のほかに数枚、下着や靴下も有つたやうやけど、今日は浴衣だけのやうや。

 見慣れた浴衣の白が、ポツンと闇の中にぶらさがつてましたわ。

 遠くで列車の警笛が響いてました。

 深夜の鋭い警笛ちうもんは、寝静まつた夜の街中に溶けて拡がつて穩やかに消えるちうふうにはならしません。

 暗い夜空のまん中に、帯のやうにまつすぐに昇つてゆくやうに聞こえるのんやつた。

 うちは物干し台の端まで行つて、浴衣を竹竿から外そうとしたんや。

 竿はまずVの字型の枠から外さなければなりまへん。
 竿は意外な重さやつた。けつたいやなあと思て、両の手でグイと竿を持ち上げたんや。

 そん時や。

 ぶら下がつとつた浴衣が重々しくゆらありと回つてなあ、うちの顔の前に、浴衣の襟元から斜めに伸びて、黒紐でぐつと吊られて橈められはつた、Aはんの首が突き出されよつたんは。



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