疲弊した赤ん坊のように【草の宿(31)】

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草の宿(31)

 更に一本のロープが、橇に繋がれ、三人が前に回りました。
 橇の後ろにも一本のロープを繋ぎました。橇の前後からロープを引き合い、男達は、橇の向きを道から反らし、山に向けました。

 人の足跡のない雪面に向けて、男達は歩いていきます。

 橇の中から、火吹き竹のような音がしました。
 病人が発した音です。男達は動きを止め、橇の中を見おろしました。

「すぐだ、辛抱してくれ、杉山さん」

 声は、雪に響きを吸い込まれ、そっけなく消えるのでした。吹き出したような病人の息の荒さは、静まりません。

 毛布を通して、長い長い筒から絞りだしたかのような、声がしました。

「ゆき、くれ」

 橇の後ろにいた男が、それを聞きました。
 それは、胸の奥からほとばしる、呼吸の摩擦音の中から、辛うじて聞き分けられた声でした。

 奇妙な顔をして、彼は他の男達を見ました。
 彼はその声を、忘れた歌を思い起こそうとして、言葉を、当てもなくうめき声にまぜて呟いた、先刻の、馬代荘の酒宴での杉山を思い出しながら、聞いたのです。
 苦しさの中で、苦しい夢を見ているのではないかと考えたのでした。

「はっきりせい、杉山さん」

 悪い夢を覚まそうとして、男は怒鳴りました。
 病人の口元の毛布を、少しまくり、もう一度、叱咤の声をかけようとして、それから止めました。
 不意に、病人のつぶやきの意味が判ったからでした。

 他の男達が、橇の回りにしゃがみ、杉山の顔をのぞき込みました。

「雪、くれ、と」
 男が言いました。しやがみ込んだ男達がうなづきました。

 すでに、その唇は震えるばかりで、ものを取り込む力はありませんでした。

 凍てついた雪の窪みに、今日の昼に降った、新しい雪があります。
 雪は、乾いていました。

 握りしめ、唇に運ばれた雪の玉は、その小刻みな震えに触れて、もろく崩れました。
 薄青い粉が、病人の二重顎の上にこぼれました。

 二本の指で、小さな雪のかけらを運んでやると、半開きの震える唇が、その指を柔らかくくわえました。

 疲弊した赤ん坊のように、あてがわれた指を微かに吸い、そして、吸うのを止めました。



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