ファルーカ・犬の明日
(2)
正午。
隆夫は昼飯の後、近くの公園に行つてみた。
真夏の公園には子供の影もなく、黄色の土がまぶしかつたわ。
藤棚の影の下にベンチがあつたんや。隆夫はその上に寝そべり、手にしとつた教科書を開いて顔を覆い、目をつぶつたんや。静かやつたわ。町の音、車の音が、ここでは優しい響に聞えたんや。どこからか音楽と幼児の声が、しめやかに聞こえるのんや。隆夫はほんのちびつと、まどろんだ。
耳元でなにかの気配を感じて、隆夫は身を起こしたんや。ほんで、瞬時たじろいだんや。
見慣れへん動物が、ベンチのそばで隆夫を見とつたんや。
仔ヤギか?
隆夫はベンチに座り直して、まじまじと、動物を見たわ。毛を刈り取つたばかりの羊に似とつたわ。せやけど仔羊より、小さく、それは短い尾を振つたんやわ。
『これは犬だ』
隆夫は思はず、うなりよつた。おぞましい感じが背筋を走つたんや。
『これは犬や。山羊でも羊でもない。犬だ』
ただ、その犬には毛がなかつたわ。毛を刈り取つた羊どころではおまへん、短毛すらもなく、皮膚をさらけとつたんやわ。黒い皮膚やつたんやわ。一面がかさぶたやつたんやわ。
隆夫は、二度仰天して、ベンチから腰を浮かしたわ。犬の丸裸の皮膚が、かさぶたに覆われとつたんやわ。しつぽにすら毛はなく、金属質なものに見えたんや。
足が不釣り合いに長く見えたわ。毛のない足は、こないにも細いものなのかと思つたん。かさぶたに覆われた腹の皮膚の下に、あばらのありかがくつきりと分かるのんや。背骨も首から尾まで、明瞭に浮き出とるのんや。
毛のない顔に、目だけが異様に大きく見えたのんや。
首には、それでも首輪が引つかかつとるのんや。それがいよいよ異様やつたわ。たぶんその首輪は、この犬の首周りピッタリに巻かれとつたんやろけど、やせ細り、毛がなくなりよつた今は、ほとんど今にもスポリと頭から抜け落ちてしまいさうなほどに、首にぶらぶらしとるのんや。
泥色に汚れきつた、ひものやうな首輪やけど、地は水色やつたらしい。
隆夫は思はずその首輪に触つたんやわ。犬はくすんと鼻を鳴らしたわ。
「おまえ」と、隆夫はしめやかな声で話しかけたんやわ。
「おまえはケンタローなのか?」
犬はもういつぺん、鼻を鳴らしたんや。隆夫はのぞき込んだ犬の目の中に、自分の顔がはつきり写つとるのを見たわ。
「やつぱりケンタローか。どうしたんだ、こないになつて。ひどい病気になりよつたんやなあ」
隆夫はかさぶたに覆われた犬の首筋を、そつとなでたんや。ほんでそつと顔を犬に近づけたんやわ。犬はそつと隆夫の頬をなめたわ。
皮膚病を不気味に思ひながらも、犬の舌がふれると、隆夫はなんやか胸に迫るいとおしさを感じたわ。両手で、犬の顔を挟んで、思ひ切り顔をくつつけたんや。
これほどになるまでに重い皮膚病なのに、不思議に犬は苦痛を感じとる風ではなかつたわ。かさぶたがしつかりと固まつとるとこを見ても、どうやら快方に向かつとるらしいのや。
犬は、突然頭を上げたわ。一声、鋭い声でほえたんや。隆夫の手をするりと抜け、はねるやうな足取りで、駆けだしたわ。走りながら犬は立て続けにほえたんや。公園の向こうを、白い犬が通りかかり、裸の犬はそちらに向けて突進していつたんや。
隆夫は首をすくめたわ。その犬の声は、鋭い上に、重厚で、生気に満ちた野生の力が込められてをるかのようやつたから。
あれが、あの犬か、と隆夫は自問したわ。あれがケンタローならば、隆夫は初めて声を聞いたのや。
犬の裸の腹に浮き出した肋骨が、白い犬ともつれ合う動きの中で、しなやかに粗密を作り波打つたんや。かさぶたに覆われた皮膚も、遠ざかるとなめらかな、クロヒョウのシルエットのやうに見えたんやわ。動きは、すばらしくしなやかやつたわ。
二匹の犬は、じやれ合い、体をぶつけ合つて植ゑ込みの向こうに見えなくなりよつた。
隆夫は藤棚を離れ、ゆつくりと工場に戻り始めたんや。
ある夜、隆夫が大学から戻ると、美佐子が玄関まで出迎え、何気ない口ぶりで、
「お母はん、来てるわよ」と、つぶやいた。
隆夫は体の中に、一瞬、こわばるものを感じたわ。
「何しに?なんやつて来よつたんやろう」
隆夫は上がりがまちに腰を下ろし、深く一息ついてから部屋に入つたんや。
ドアを開けると、そこに母親がいたわ。
「お帰り」
「ああ」
「夜の部に変わつたんだつてね」と、母は言つたんやわ。
「それは大変やね」
「いや、なあんも変わりまへん」と、隆夫は浮かない声で答えたわ。
「とにかく、虻蜂取らずになつてしもたね」
「えつ?」
「夜学なんて、どうにもならへんやろ」
「何が?」
「昼間働いて、切りつめて、それで勉強が満足にできるかい」
隆夫はこめかみが、ぶるつと震えるのを覚えたんやわ。
「そないなことはないよ」
「でも、おまえもよく解つたろうから、もうよかろうつてお父はんは言ふんだよ」
「何が?」
母親は柔和な表情で話し続けたんやわ。
「もう、元通り学費を出してあげるつて、言つてるよ。卒業まで、ちやんとしてやるつてね」
隆夫は、無言で母親を見つめたわ。
「夜学に変へて、仕事をしとるなんて知らなかつたよ。思ひ切つたことをしたもんやね。お父はんが許してくれたんやから、すぐにまた、昼の部に戻りなさい。そないな生活やら、みつともないやないか。半端なことやら、なんにもならへん」
隆夫は咳払いをして、喉にからみつきさうなものを飲み込んだんや。
「見当違いはやめてくれよ」
「なんやて?」
「このまんまでええよ」
「どうして」
「結構や。俺たちは、このまんまにしてをひてくれよ。このまんまで十分や。夜やろうが、昼やろうが、自分のことは自分でするんや」
声を出し続けとると、頭に血が上りさうなのを、こらえながら言つたんや。
「虻蜂取らずなんて、なんや。虻とか蜂とか、なんの例へのつもりだよ」
「おまえ、何を怒るんだい」
母親の声が鋭くなりよつた。隆夫は、一段、声を低めたわ。
「怒つてへんよ」
「怒鳴つたやないか」
「・・・・・・・・・」
「おまえは、どういふつもりだい。うちたちに反対して、お嫁はんをもらつちやつたのは仕方がないよ。それでもお父はんは許してやるつて言つてるんだ」
不意に頭の中があつくなつて、隆夫はめまひを感じたわ。
あの日の出来事を思ひ出して、顔から火が吹き出さうや。隣室で、美佐子が緊張して耳をそばだてとるのやろか。
二人で、両親の前で叱責されたとき、隆夫はなんだか、ひと事のやうに聞いとつたんやわ。やけど、思ひ出した今、どうして俺は怒つとるんやろう、と隆夫は自問したんや。
母親が、ふと吐息をつくやうに言つたんやわ。
「おまえ、後悔してへんかい」
隆夫は身震いして、立ち上がつたんやわ。
「もうええ、たのむから、帰つてくれへんか」
「帰れつていふのかい。おまえ」
母親の顔が白くなつとつた。
「帰るよ。母親に向けてよくまあ、言つたね。お父はんに聞えなくてまだよろしかつた」
母親は持つてきた荷物を、取り集めながら、そないな風にぶつぶつと言ひ、しまいには語尾をふるわせたわ。
戸が開き、美佐子がそこにいたんやわ。
「お願い、けんかせんで。お母はん、泊まつていつてください」
あえぐやうに美佐子は言つたんやわ。
隆夫は机に向かい、美佐子の泣き声と、母親のあわただしさうな身支度の音をじつと聞いとつた。
母親にも、妻にも、言ひようのない疎ましさを感じて、隆夫は低くうめくばかりやつた。
真夜中。帰宅した玄関先で、隆夫はほえる犬の声を聞いたんや。
隣家の玄関に犬のシルエットが見えたわ。
生け垣に近づき、犬に向かつて手を振り、口笛を吹くと犬はいよいよ吠えたんや。
威嚇する吠え声ではおまへん。はげしくしつぽを振つとるのんや。
隆夫は懐かしさと、いとをしむやうな気もちが、湧いてくるのを覚えたわ。それがなんでなのかは、よう解りまへん。
「ケンタロー、帰つたのか。もう、どこにも行くなよ」
隆夫は犬のシルエットに向けて叫んどつたんや。
(了)
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(2)
正午。
隆夫は昼飯の後、近くの公園に行つてみた。
真夏の公園には子供の影もなく、黄色の土がまぶしかつたわ。
藤棚の影の下にベンチがあつたんや。隆夫はその上に寝そべり、手にしとつた教科書を開いて顔を覆い、目をつぶつたんや。静かやつたわ。町の音、車の音が、ここでは優しい響に聞えたんや。どこからか音楽と幼児の声が、しめやかに聞こえるのんや。隆夫はほんのちびつと、まどろんだ。
耳元でなにかの気配を感じて、隆夫は身を起こしたんや。ほんで、瞬時たじろいだんや。
見慣れへん動物が、ベンチのそばで隆夫を見とつたんや。
仔ヤギか?
隆夫はベンチに座り直して、まじまじと、動物を見たわ。毛を刈り取つたばかりの羊に似とつたわ。せやけど仔羊より、小さく、それは短い尾を振つたんやわ。
『これは犬だ』
隆夫は思はず、うなりよつた。おぞましい感じが背筋を走つたんや。
『これは犬や。山羊でも羊でもない。犬だ』
ただ、その犬には毛がなかつたわ。毛を刈り取つた羊どころではおまへん、短毛すらもなく、皮膚をさらけとつたんやわ。黒い皮膚やつたんやわ。一面がかさぶたやつたんやわ。
隆夫は、二度仰天して、ベンチから腰を浮かしたわ。犬の丸裸の皮膚が、かさぶたに覆われとつたんやわ。しつぽにすら毛はなく、金属質なものに見えたんや。
足が不釣り合いに長く見えたわ。毛のない足は、こないにも細いものなのかと思つたん。かさぶたに覆われた腹の皮膚の下に、あばらのありかがくつきりと分かるのんや。背骨も首から尾まで、明瞭に浮き出とるのんや。
毛のない顔に、目だけが異様に大きく見えたのんや。
首には、それでも首輪が引つかかつとるのんや。それがいよいよ異様やつたわ。たぶんその首輪は、この犬の首周りピッタリに巻かれとつたんやろけど、やせ細り、毛がなくなりよつた今は、ほとんど今にもスポリと頭から抜け落ちてしまいさうなほどに、首にぶらぶらしとるのんや。
泥色に汚れきつた、ひものやうな首輪やけど、地は水色やつたらしい。
隆夫は思はずその首輪に触つたんやわ。犬はくすんと鼻を鳴らしたわ。
「おまえ」と、隆夫はしめやかな声で話しかけたんやわ。
「おまえはケンタローなのか?」
犬はもういつぺん、鼻を鳴らしたんや。隆夫はのぞき込んだ犬の目の中に、自分の顔がはつきり写つとるのを見たわ。
「やつぱりケンタローか。どうしたんだ、こないになつて。ひどい病気になりよつたんやなあ」
隆夫はかさぶたに覆われた犬の首筋を、そつとなでたんや。ほんでそつと顔を犬に近づけたんやわ。犬はそつと隆夫の頬をなめたわ。
皮膚病を不気味に思ひながらも、犬の舌がふれると、隆夫はなんやか胸に迫るいとおしさを感じたわ。両手で、犬の顔を挟んで、思ひ切り顔をくつつけたんや。
これほどになるまでに重い皮膚病なのに、不思議に犬は苦痛を感じとる風ではなかつたわ。かさぶたがしつかりと固まつとるとこを見ても、どうやら快方に向かつとるらしいのや。
犬は、突然頭を上げたわ。一声、鋭い声でほえたんや。隆夫の手をするりと抜け、はねるやうな足取りで、駆けだしたわ。走りながら犬は立て続けにほえたんや。公園の向こうを、白い犬が通りかかり、裸の犬はそちらに向けて突進していつたんや。
隆夫は首をすくめたわ。その犬の声は、鋭い上に、重厚で、生気に満ちた野生の力が込められてをるかのようやつたから。
あれが、あの犬か、と隆夫は自問したわ。あれがケンタローならば、隆夫は初めて声を聞いたのや。
犬の裸の腹に浮き出した肋骨が、白い犬ともつれ合う動きの中で、しなやかに粗密を作り波打つたんや。かさぶたに覆われた皮膚も、遠ざかるとなめらかな、クロヒョウのシルエットのやうに見えたんやわ。動きは、すばらしくしなやかやつたわ。
二匹の犬は、じやれ合い、体をぶつけ合つて植ゑ込みの向こうに見えなくなりよつた。
隆夫は藤棚を離れ、ゆつくりと工場に戻り始めたんや。
ある夜、隆夫が大学から戻ると、美佐子が玄関まで出迎え、何気ない口ぶりで、
「お母はん、来てるわよ」と、つぶやいた。
隆夫は体の中に、一瞬、こわばるものを感じたわ。
「何しに?なんやつて来よつたんやろう」
隆夫は上がりがまちに腰を下ろし、深く一息ついてから部屋に入つたんや。
ドアを開けると、そこに母親がいたわ。
「お帰り」
「ああ」
「夜の部に変わつたんだつてね」と、母は言つたんやわ。
「それは大変やね」
「いや、なあんも変わりまへん」と、隆夫は浮かない声で答えたわ。
「とにかく、虻蜂取らずになつてしもたね」
「えつ?」
「夜学なんて、どうにもならへんやろ」
「何が?」
「昼間働いて、切りつめて、それで勉強が満足にできるかい」
隆夫はこめかみが、ぶるつと震えるのを覚えたんやわ。
「そないなことはないよ」
「でも、おまえもよく解つたろうから、もうよかろうつてお父はんは言ふんだよ」
「何が?」
母親は柔和な表情で話し続けたんやわ。
「もう、元通り学費を出してあげるつて、言つてるよ。卒業まで、ちやんとしてやるつてね」
隆夫は、無言で母親を見つめたわ。
「夜学に変へて、仕事をしとるなんて知らなかつたよ。思ひ切つたことをしたもんやね。お父はんが許してくれたんやから、すぐにまた、昼の部に戻りなさい。そないな生活やら、みつともないやないか。半端なことやら、なんにもならへん」
隆夫は咳払いをして、喉にからみつきさうなものを飲み込んだんや。
「見当違いはやめてくれよ」
「なんやて?」
「このまんまでええよ」
「どうして」
「結構や。俺たちは、このまんまにしてをひてくれよ。このまんまで十分や。夜やろうが、昼やろうが、自分のことは自分でするんや」
声を出し続けとると、頭に血が上りさうなのを、こらえながら言つたんや。
「虻蜂取らずなんて、なんや。虻とか蜂とか、なんの例へのつもりだよ」
「おまえ、何を怒るんだい」
母親の声が鋭くなりよつた。隆夫は、一段、声を低めたわ。
「怒つてへんよ」
「怒鳴つたやないか」
「・・・・・・・・・」
「おまえは、どういふつもりだい。うちたちに反対して、お嫁はんをもらつちやつたのは仕方がないよ。それでもお父はんは許してやるつて言つてるんだ」
不意に頭の中があつくなつて、隆夫はめまひを感じたわ。
あの日の出来事を思ひ出して、顔から火が吹き出さうや。隣室で、美佐子が緊張して耳をそばだてとるのやろか。
二人で、両親の前で叱責されたとき、隆夫はなんだか、ひと事のやうに聞いとつたんやわ。やけど、思ひ出した今、どうして俺は怒つとるんやろう、と隆夫は自問したんや。
母親が、ふと吐息をつくやうに言つたんやわ。
「おまえ、後悔してへんかい」
隆夫は身震いして、立ち上がつたんやわ。
「もうええ、たのむから、帰つてくれへんか」
「帰れつていふのかい。おまえ」
母親の顔が白くなつとつた。
「帰るよ。母親に向けてよくまあ、言つたね。お父はんに聞えなくてまだよろしかつた」
母親は持つてきた荷物を、取り集めながら、そないな風にぶつぶつと言ひ、しまいには語尾をふるわせたわ。
戸が開き、美佐子がそこにいたんやわ。
「お願い、けんかせんで。お母はん、泊まつていつてください」
あえぐやうに美佐子は言つたんやわ。
隆夫は机に向かい、美佐子の泣き声と、母親のあわただしさうな身支度の音をじつと聞いとつた。
母親にも、妻にも、言ひようのない疎ましさを感じて、隆夫は低くうめくばかりやつた。
真夜中。帰宅した玄関先で、隆夫はほえる犬の声を聞いたんや。
隣家の玄関に犬のシルエットが見えたわ。
生け垣に近づき、犬に向かつて手を振り、口笛を吹くと犬はいよいよ吠えたんや。
威嚇する吠え声ではおまへん。はげしくしつぽを振つとるのんや。
隆夫は懐かしさと、いとをしむやうな気もちが、湧いてくるのを覚えたわ。それがなんでなのかは、よう解りまへん。
「ケンタロー、帰つたのか。もう、どこにも行くなよ」
隆夫は犬のシルエットに向けて叫んどつたんや。
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