朱い花
テラスにのぼり着いたわ。
人の背丈程の常緑樹の鉢が並べられとつて、その向かうに色ガラスの窓が並んでゐるのんや。原色の色ガラスの内側に、光と人の気配がしたわ。
生きてゐるものの気配、長い生活の気配が明かりと、さざめきと、甘味を含んだ、何かが饐えたみたいなにほひが感じられたわ。
ウチは様々な形と色の窓の並びを一つずつ見たんや。丸い窓、多角形の窓、引き戸の窓、観音開きの窓、落窓、跳ね窓、桃色、黄、青、紫、朱、橙、とりどりの色ガラスの窓が並び続いてゐるのんや。
薄青い色ガラスに朱の輪を描いた窓があつたんやわ。
ウチは近寄り、その朱に見とれたわ。朱の輪は、多肉質の花弁の、ごく小さな花を散りばめて結ばれてゐたんや。
指で触れると、朱の花弁にレリーフされたみたいなふくらみがあつたわ。小指の先程の花々が輪をなす帯の中央に並び、それを挟み、ほんで遠ざかるにつれて小さくなる花々が、層をなして輪を結んでゐるのんや。薄青の地から、朱の輪が幻みたいに浮かびでて来よったやうにも、あるひは、朱の輪は薄青の地に、にぢみながら沈んで行くやうにも見えるのんや。
窓の傍の細長い戸を押したんやわ。戸は羽みたいに軽く開いたんや。黄色の光に照らされた莚を張り巡らせた部屋があつたわ。
鉋屑と木切れが散乱してゐるのんや。低い木の卓があるのんや。それに向き合つて、老人と娘が座わつてゐたのんや。二人は卓に向かつて、木の細工をしてゐたのやけど、入つて来よったウチを見ても、その表情に驚きも途惑ひもなかつたわ。
老人は素肌に褐色の半纒を着てたんや。顔も胸も、病人みたいに痩せ、骨格が浮き出してゐたのんや。せやけど日に焼けた黒い肌で、目も老人の黄ばみはあるものの、尋常や。穩やかな目つきであるので、ウチは心中チビッと安堵したんやわ。
娘は腰を浮かして散乱してゐる木片を取り除いて、丸く編んだ莚を置いたんやわ。ウチに座るやうにすすめてゐるらしい。無言やけど、やはり入つて来よつたウチを警戒してゐる風ではおまへん。
鉋屑の中から犬が頭を上げたんやわ。犬は吠えず、唸りもせん。物憂げにウチを見上げ、ほんでもつかい鉋屑の中に頭を埋めたんや。
ウチは娘が差し延べてくれた莚の上に腰をおろし、二人の手元の細工を見たんやわ。それは楽器みたいやつた。丸く膨らんだ響鳴体から絃を張るための棹がのびてゐるのんや。二人の坐つてゐる周囲には、卓の上で細工中の物と同じ形のものがいくつか並べられてあるのんや。
ウチは上体を延ばし、その一つを眺めたんやわ。
楽器の響鳴孔を縁どつとるのは、鏤められた小さな朱の花が結ぶ輪なんや。
輪になる帯の中心を燐寸の頭程の大きさの花が巡り、それを挟んで外縁、内縁に向かつて花々は次第に小さくなるのんや。十一列の花の輪が層をなし、一つの帯をなして響鳴孔を囲んでゐるのんや。
花弁には置かれた露みたいなふくらみがあつて、夜の明かりを含んでかすかに輝いてゐるのんや。帯の両端の層に並び巡らされた花は罌粟の実ほどで、これにも真朱の花弁と黒い花芯が針の先で置いたやうな露を結んでゐるのんや。花々に映る光の加減で、露の内部に宿つた光沢に霧を吹きつけたやうな翳が走るのんや。
響鳴板には刷いたやうな細密な年輪の層が、雪の上の風紋みたいにうねりながら流れてゐるのんや。その年輪の一筋一筋にも霧みたいな翳がにぢんでその流れが失せると、黄灰色の生地のものとは別の、楽器の体腔から沁み出たやうな光沢が漂ふ。その時、朱の花々は紗の奥でゆらめくやうに見えたんやわ。
棹に張られた絃の最も細い一本を弾いてみたんやわ。音は堅く鋭く意表を突く強さで発されたわ。氷の針が弾き出て指をかすめて飛び去つたかみたいで、ウチの手は一瞬の痛みに反応するみたいに痙攣したわ。響鳴孔を縁どつた最も小さな花々の一層が音に震へ、花弁が互ひに溶け合ふやうに個々を消し一筋の線になつたんやわ。
張り渡した絃のみなを細い方からゆつくりと弾いていくと、花の層は内縁と外縁から伝播するやうに糸の輪となつてゆき、最も太い絃が震へる時、悉くの花は消え、層は朱の帯になつて孔を縁どつたんやわ。
ぜんぶの絃で響かせた音は、黄色い明かりに染まつた夜の部屋の空気を波打たせたわ。楽器はそれを抱いたウチの体に、音の重さを伝へてきたわ。ウチはウチの体もまた響きを増幅させる器になつてゐるみたいに感じてゐたんやわ。老人と娘は頭を垂れ、目を閉じ、動きを止めたんやわ。響きに聴きいつてゐるのや。
音が減衰するのんや。消えていつた逆の順に、帯の中央から花が現はれ、響きが消滅すると、ふたたび花の輪の層が浮かび上がつたんやわ。
ウチは楽器を膝の上に置き、このロゼッタに仕組まれた細工に見とれ、幾度となく花を消すために絃を弾いたり、朱の帯から一層二層と花の輪が現はれるのを見極めやうと振動する絃に静かに指を押し当ててみたりしたわ。楽器からかすかに甘味を含んだ匂いがしたわ。
絃が震へだすとなめらかに磨かれた木肌が匂い立つたんや。
それは夕刻になるにつれて降り積もつた雪の間から醸し出る湧水の匂ひに似てゐたわ。
朱の帯は水面の輪みたいに震へながら広がり、収束すれば朱の滴が浮かび出るのや。
あの水の輪を見つめてゐたみたいに、ウチは朱の帯を見つめ、ほんであの水も実に濃く匂ひたつてウチの体を包み込んだのを思ひだしたんや。
あれは、流れとらん水で、その水面には小波すらも無かつたわ。
水は深く湛へられてたわ、空には雪雲が垂れ込めてゐたから、映える光は無かつたわ。濃い碧の水は、粘性があるものみたいにも、あるひはとてつもない深い穴そのもののやうでもあつたんやわ。
ウチはその濃い碧の色をしたものに降りかかる雪が消えてゆく瞬間を眺めてゐたんやわ。
白い乾いた雪片が触れるその瞬時に消滅させ小皺程の揺るぎすらもない水の面を凝視し続けてゐたんやわ。雪は溶けるといふより水の面の奥の、見えへん世界に落ち沈んで行くやうに見えたんやわ。
濃い碧の奥に消えた雪片は、もう、一回、水面にその氷結の花を浮かばせる筈はなかつたけど、消えてゆく瞬間、それは瞬間といふ微小とは言へ、途切られた時間には思へなかつたんやけど、碧の水に結晶を浮かべるのやつた。
その瞬時の雪を見つめてゐるうちに、ウチのカラダが、奇妙なものに思はれたのや。消滅せん自分、この体が、重たい重たい、動きのにぶい物質に思はれたんやつた。
長い凝視の後で、ウチは水面から目を挙げたんやわ。
息を深く吸つて奇妙な思ひを息と共に吐き出したいと思つたんやわ。ウチの不安は、速やかに見えなくなる雪片には及ばない、自分の体が、間のびした動きしかでけへんみたいで、やりきれなく感じられた為やつたんやわ。
ウチは外套のポケツトの中で右手を握りしめ、雪の消滅の瞬間を思ひ描きながら体を捩つたんやわ。
はづみをつけてポケツトから抜き出したウチの腕は、えらく間のびして、それでも傍のオトコはかわしもせんで、やはり鈍い動きでウチの前に崩れたんやわ。
ウチは膝に縋りついたオトコの体をそつと押したんやわ。濃い碧の色をした水面が、震へ、水輪はすぐに鎮まり、その向かうの見えへん世界に向けて雪片は降り続けたゐたんやわ。
ウチは足元の朱の滴りを見つめました。
霜でささくれた地面に、こんもりと丸みを帯びて溜まつたものがちびッとずつ沁み入り、平らかに消え、雪が白い皮膜で染み跡すらも見えなくしたんやわ。
ウチは握つてゐた冷たいものを水面に沈めたんやわ。みなが消失し、ウチの塊だけがのろのろと歩きだしてゐたんやわ。
ウチは繰り返し膝の上で楽器を鳴らし、次いでそれを消し、花々の消滅と再生のさまを長いこと見つめてゐました。
楼はそそり立つ断崖に寄生し、天に近い高みに成育してゐるのんや。
ウチはテラスに立ち、どこぞの丘の岩壁に穴を穿ち、暮らす人間になつた気でゐるのんや。
楼の背後の壁は、穴を穿つには余りにも足場が無く、人はそのかはりに黴みたいに木材や石や鉄骨を断崖に附着繁殖させ、遂に楼は岩壁を一面に覆つてしまつたんやわ。楼に住むことは、岩壁に住むことでウチらは穴居人類となつて冬の地平を眺めてゐるのんや。
雪の表が、かすかに丸みを帯びて空に触れるあたりまで、ウチの視界にはなあんも無いちうわけやわ。水の流れも、立木も無く、時折つむじ風が雪を天にねじ込みながら滑走して行くのを見るばかりや。丸みをもつたふくらみやくぼみをもつた雪の原があるばかりや。風ににほひがあるのは、雪が溶け始めてゐるからだらうや。
いつだつたかウチはこのテラスから、もつと寒い風の中で、遠い人間の声を聞いてゐたことがあるのんや。声は幾重にも重なり、その合ひ間に、金属が何ぞを切り裂く響きがあつたんやわ。遠いどこぞ見定められへんとこで、また橇の競技が始まつたんやつたらう。それともまた、戦争でもしてたんやろか。
今はなあんもないわ。
風の音しか聞こえへん。
堅く凍てた氷の壁を炸裂する滑走の轟きは消えてしまつたし。橇に乗り込める体力の人間は、ぜんぶ氷の壁を滑り落ちて、朱の一瞬の染みになつてしまつたんやろ。
(了)
テクノラティプロフィール
テラスにのぼり着いたわ。
人の背丈程の常緑樹の鉢が並べられとつて、その向かうに色ガラスの窓が並んでゐるのんや。原色の色ガラスの内側に、光と人の気配がしたわ。
生きてゐるものの気配、長い生活の気配が明かりと、さざめきと、甘味を含んだ、何かが饐えたみたいなにほひが感じられたわ。
ウチは様々な形と色の窓の並びを一つずつ見たんや。丸い窓、多角形の窓、引き戸の窓、観音開きの窓、落窓、跳ね窓、桃色、黄、青、紫、朱、橙、とりどりの色ガラスの窓が並び続いてゐるのんや。
薄青い色ガラスに朱の輪を描いた窓があつたんやわ。
ウチは近寄り、その朱に見とれたわ。朱の輪は、多肉質の花弁の、ごく小さな花を散りばめて結ばれてゐたんや。
指で触れると、朱の花弁にレリーフされたみたいなふくらみがあつたわ。小指の先程の花々が輪をなす帯の中央に並び、それを挟み、ほんで遠ざかるにつれて小さくなる花々が、層をなして輪を結んでゐるのんや。薄青の地から、朱の輪が幻みたいに浮かびでて来よったやうにも、あるひは、朱の輪は薄青の地に、にぢみながら沈んで行くやうにも見えるのんや。
窓の傍の細長い戸を押したんやわ。戸は羽みたいに軽く開いたんや。黄色の光に照らされた莚を張り巡らせた部屋があつたわ。
鉋屑と木切れが散乱してゐるのんや。低い木の卓があるのんや。それに向き合つて、老人と娘が座わつてゐたのんや。二人は卓に向かつて、木の細工をしてゐたのやけど、入つて来よったウチを見ても、その表情に驚きも途惑ひもなかつたわ。
老人は素肌に褐色の半纒を着てたんや。顔も胸も、病人みたいに痩せ、骨格が浮き出してゐたのんや。せやけど日に焼けた黒い肌で、目も老人の黄ばみはあるものの、尋常や。穩やかな目つきであるので、ウチは心中チビッと安堵したんやわ。
娘は腰を浮かして散乱してゐる木片を取り除いて、丸く編んだ莚を置いたんやわ。ウチに座るやうにすすめてゐるらしい。無言やけど、やはり入つて来よつたウチを警戒してゐる風ではおまへん。
鉋屑の中から犬が頭を上げたんやわ。犬は吠えず、唸りもせん。物憂げにウチを見上げ、ほんでもつかい鉋屑の中に頭を埋めたんや。
ウチは娘が差し延べてくれた莚の上に腰をおろし、二人の手元の細工を見たんやわ。それは楽器みたいやつた。丸く膨らんだ響鳴体から絃を張るための棹がのびてゐるのんや。二人の坐つてゐる周囲には、卓の上で細工中の物と同じ形のものがいくつか並べられてあるのんや。
ウチは上体を延ばし、その一つを眺めたんやわ。
楽器の響鳴孔を縁どつとるのは、鏤められた小さな朱の花が結ぶ輪なんや。
輪になる帯の中心を燐寸の頭程の大きさの花が巡り、それを挟んで外縁、内縁に向かつて花々は次第に小さくなるのんや。十一列の花の輪が層をなし、一つの帯をなして響鳴孔を囲んでゐるのんや。
花弁には置かれた露みたいなふくらみがあつて、夜の明かりを含んでかすかに輝いてゐるのんや。帯の両端の層に並び巡らされた花は罌粟の実ほどで、これにも真朱の花弁と黒い花芯が針の先で置いたやうな露を結んでゐるのんや。花々に映る光の加減で、露の内部に宿つた光沢に霧を吹きつけたやうな翳が走るのんや。
響鳴板には刷いたやうな細密な年輪の層が、雪の上の風紋みたいにうねりながら流れてゐるのんや。その年輪の一筋一筋にも霧みたいな翳がにぢんでその流れが失せると、黄灰色の生地のものとは別の、楽器の体腔から沁み出たやうな光沢が漂ふ。その時、朱の花々は紗の奥でゆらめくやうに見えたんやわ。
棹に張られた絃の最も細い一本を弾いてみたんやわ。音は堅く鋭く意表を突く強さで発されたわ。氷の針が弾き出て指をかすめて飛び去つたかみたいで、ウチの手は一瞬の痛みに反応するみたいに痙攣したわ。響鳴孔を縁どつた最も小さな花々の一層が音に震へ、花弁が互ひに溶け合ふやうに個々を消し一筋の線になつたんやわ。
張り渡した絃のみなを細い方からゆつくりと弾いていくと、花の層は内縁と外縁から伝播するやうに糸の輪となつてゆき、最も太い絃が震へる時、悉くの花は消え、層は朱の帯になつて孔を縁どつたんやわ。
ぜんぶの絃で響かせた音は、黄色い明かりに染まつた夜の部屋の空気を波打たせたわ。楽器はそれを抱いたウチの体に、音の重さを伝へてきたわ。ウチはウチの体もまた響きを増幅させる器になつてゐるみたいに感じてゐたんやわ。老人と娘は頭を垂れ、目を閉じ、動きを止めたんやわ。響きに聴きいつてゐるのや。
音が減衰するのんや。消えていつた逆の順に、帯の中央から花が現はれ、響きが消滅すると、ふたたび花の輪の層が浮かび上がつたんやわ。
ウチは楽器を膝の上に置き、このロゼッタに仕組まれた細工に見とれ、幾度となく花を消すために絃を弾いたり、朱の帯から一層二層と花の輪が現はれるのを見極めやうと振動する絃に静かに指を押し当ててみたりしたわ。楽器からかすかに甘味を含んだ匂いがしたわ。
絃が震へだすとなめらかに磨かれた木肌が匂い立つたんや。
それは夕刻になるにつれて降り積もつた雪の間から醸し出る湧水の匂ひに似てゐたわ。
朱の帯は水面の輪みたいに震へながら広がり、収束すれば朱の滴が浮かび出るのや。
あの水の輪を見つめてゐたみたいに、ウチは朱の帯を見つめ、ほんであの水も実に濃く匂ひたつてウチの体を包み込んだのを思ひだしたんや。
あれは、流れとらん水で、その水面には小波すらも無かつたわ。
水は深く湛へられてたわ、空には雪雲が垂れ込めてゐたから、映える光は無かつたわ。濃い碧の水は、粘性があるものみたいにも、あるひはとてつもない深い穴そのもののやうでもあつたんやわ。
ウチはその濃い碧の色をしたものに降りかかる雪が消えてゆく瞬間を眺めてゐたんやわ。
白い乾いた雪片が触れるその瞬時に消滅させ小皺程の揺るぎすらもない水の面を凝視し続けてゐたんやわ。雪は溶けるといふより水の面の奥の、見えへん世界に落ち沈んで行くやうに見えたんやわ。
濃い碧の奥に消えた雪片は、もう、一回、水面にその氷結の花を浮かばせる筈はなかつたけど、消えてゆく瞬間、それは瞬間といふ微小とは言へ、途切られた時間には思へなかつたんやけど、碧の水に結晶を浮かべるのやつた。
その瞬時の雪を見つめてゐるうちに、ウチのカラダが、奇妙なものに思はれたのや。消滅せん自分、この体が、重たい重たい、動きのにぶい物質に思はれたんやつた。
長い凝視の後で、ウチは水面から目を挙げたんやわ。
息を深く吸つて奇妙な思ひを息と共に吐き出したいと思つたんやわ。ウチの不安は、速やかに見えなくなる雪片には及ばない、自分の体が、間のびした動きしかでけへんみたいで、やりきれなく感じられた為やつたんやわ。
ウチは外套のポケツトの中で右手を握りしめ、雪の消滅の瞬間を思ひ描きながら体を捩つたんやわ。
はづみをつけてポケツトから抜き出したウチの腕は、えらく間のびして、それでも傍のオトコはかわしもせんで、やはり鈍い動きでウチの前に崩れたんやわ。
ウチは膝に縋りついたオトコの体をそつと押したんやわ。濃い碧の色をした水面が、震へ、水輪はすぐに鎮まり、その向かうの見えへん世界に向けて雪片は降り続けたゐたんやわ。
ウチは足元の朱の滴りを見つめました。
霜でささくれた地面に、こんもりと丸みを帯びて溜まつたものがちびッとずつ沁み入り、平らかに消え、雪が白い皮膜で染み跡すらも見えなくしたんやわ。
ウチは握つてゐた冷たいものを水面に沈めたんやわ。みなが消失し、ウチの塊だけがのろのろと歩きだしてゐたんやわ。
ウチは繰り返し膝の上で楽器を鳴らし、次いでそれを消し、花々の消滅と再生のさまを長いこと見つめてゐました。
楼はそそり立つ断崖に寄生し、天に近い高みに成育してゐるのんや。
ウチはテラスに立ち、どこぞの丘の岩壁に穴を穿ち、暮らす人間になつた気でゐるのんや。
楼の背後の壁は、穴を穿つには余りにも足場が無く、人はそのかはりに黴みたいに木材や石や鉄骨を断崖に附着繁殖させ、遂に楼は岩壁を一面に覆つてしまつたんやわ。楼に住むことは、岩壁に住むことでウチらは穴居人類となつて冬の地平を眺めてゐるのんや。
雪の表が、かすかに丸みを帯びて空に触れるあたりまで、ウチの視界にはなあんも無いちうわけやわ。水の流れも、立木も無く、時折つむじ風が雪を天にねじ込みながら滑走して行くのを見るばかりや。丸みをもつたふくらみやくぼみをもつた雪の原があるばかりや。風ににほひがあるのは、雪が溶け始めてゐるからだらうや。
いつだつたかウチはこのテラスから、もつと寒い風の中で、遠い人間の声を聞いてゐたことがあるのんや。声は幾重にも重なり、その合ひ間に、金属が何ぞを切り裂く響きがあつたんやわ。遠いどこぞ見定められへんとこで、また橇の競技が始まつたんやつたらう。それともまた、戦争でもしてたんやろか。
今はなあんもないわ。
風の音しか聞こえへん。
堅く凍てた氷の壁を炸裂する滑走の轟きは消えてしまつたし。橇に乗り込める体力の人間は、ぜんぶ氷の壁を滑り落ちて、朱の一瞬の染みになつてしまつたんやろ。
(了)
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