不意の匂い【草の宿(11)】

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草の宿(11)

 においを覚えて、少年は夜の窓辺で、頭を振りました。

 不意に彼が覚へるにおい、それにはいくつかの種類がありました。
 石炭の煙のにおい、夏みかんのにおい、時におだまきの花のにおいであったり、枯れ葉のにおいであり、それ以外にも幾つかあるようです。
 そして、それらのにおいを覚へるのは、少年が、何だか昂ぶるものを感じるときでした。
 今、かすかに匂いたつのは、なんだか甘みを帯びた、冷たいそれです。

 彼は、少し考え、そして思いだしました。まぎれもなくトコのにおいです。ずいぶんと昔、ミヤコさんがスキーに塗ってくれた、トコのにおい、ミヤコさんの手元から匂い立った、それでした。

 こうしたにおいが訪れる時、彼はいつも不思議なものにつつまれました。胸に湧き出した昂ぶるものが、もたらす感覚であるのか、においが昂ぶりをもたらすのか、それは、わかりません。

 においは次第に募り、濃密になり、胸に抱えた昂ぶりと共に、めまいを呼びそうな、危い感覚になるのです。そのような時、少年は意識してそのにおいを、感覚の外に追いだそうと努めるのでした。

 しかし、今夜は違いました。ますます濃く、鮮やかになるトコのにおいに、いつまでも浸ってみたいと、ふと思いました。深いところに落ちるような気持ち。その先にある感覚を、今は知りたかったのです。

 蒲団の上に膝を落とし、部屋を見巡しました。薄青い窓の光に、部屋の様子はぼんやりと見えます。

 部屋は、以前と何の変わりもありません。
 子供の時からの、少年の部屋です。

 三年前に、この部屋を出て、下宿をし、学校に通いましたが、帰省すればこの部屋で眠ってきたのです。
 帰省の都度、壁に貼るものを変えましたが、空気は三年前のままです。ほんの二月前に帰省した折に貼った、公式を書いた紙も、何だか中学生の自分が貼ったもののような気がするほどです。

 その日の昼に、少年は下宿を引き払って帰って来ました。鞄の中には、受験した学校の合格通知が入っていました。

 しかし、思いもよらないことでした。下宿の部屋で、合格通知を手にした時の、数日前の、あの嬉しさは何だったのでしょう。
 時間を経るごとに、少年は新しい生活への意欲を、強く遮るものを感じだし始めていたのです。

 新しい生活への希望が、色あせてきたというのではありません。
 今も、十分に惹きよせるものが、新しく始められる筈の生活には見えるようです。それなのに、それよりも強い力で、願うところがあるような気がしてたまりません。
 それが一体、何なのであるか、どこからの力なのか、彼はまごつきながら、考えを巡らせているのでした。

 帰宅してすぐに、母に合格通知を見せました。

 母は悦び、少し泣いて、それを仏檀に捧げて、チンチンと鐘を鳴らしました。彼は少しばかり、誇らしい気持ちになり、胸に湧き出てきたものを、母に打ちあけることは、その時、ついにできなかったのです。

 そっと仏壇のある部屋を出て、自分の部屋の天井に吊していた、古い凧を持って、外に出てみました。半日ばかり、子供の頃に遊んだ雪山を登り、凧を揚げて帰ってきたのです。
 胸の中にわき出た、なんだか得体の知れないわだかまりは、晴れないままでした。



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