凧は天、橇は沢底へ【草の宿(9)】

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草の宿(9)

 凧糸は、楓の枝に絡みつき、真直ぐな線だったのが、そこで、への字に折れ曲げられました。凧のうなりは、楓の枝に途切られて、子供の手には届かなくなりました。

 いくら引っぱっても、楓は橈むばかりで、糸は外れません。
 橇が斜面にズルリと滑りました。吊り上げられたように、左手は頭上までもっていかれました。

 子供の彼には、引っぱることしか思いつかなかったのですが、少年が今になって気がつくのは、あるだけの糸を、あの時は繰り出すべきだったのでしょう。けれども、子供の彼には、その時、それは思いもつかなかったことでした。

 橇は更に斜面に流れ、それでも手に巻きつけて離さなかった凧糸は、ついに、鈍い音を発てて枝に絡んだあたりで切れました。
 左手が、いきなり自由になりました。

 子供は、驚き、愕然として凧を天に探しましたが、それを見届けることはできませんでした。

 引き留めるものがなくなった、彼を乗せた箱橇は、クルリと完然に斜面に向き、勇躍、それ自身が意志をもっているかのごとく、動き出していたのです。

 今の今まで、子供の手から伝えられていた推進力が失せたというのに、それでも橇は動くのです。子供の彼に、なすすべはありませんでした。

 凧を措しんでいる間すらも、ありません。

 凍結した斜面を滑り降りる橇は、子供が初めて経験する加速を始めました。
 それは凧に運ばれる速度などの比ではない、途方もない加速で、子供は、ただ息を呑んで、箱にしがみつくしかありませんでした。



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