箱橇、楓に捕まる【草の宿(8)】

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草の宿(8)

 町が見えた時、しかし、子供の不安は消えていました。
 見たことの無い風景が、突然、目の前に現れ、我を忘れたのです。そして、不意にポケットの中にかきもちを入れていたことを思いだしました。

 雅人、山上より大河をのぞみ、一献をたしなむがごとく、幼児は箱庭のようにのぞまれる隣町を見降ろして、ポケットのかきもちにかじりついたのです。
 芒芒たる冬色の空と雪原に、不意に現れた未知の街は、幼い子供の血をくすぐったのです。

 子供は、もともと大胆な性情ではありませんでした。けれども、箱橇の滑りと、凧糸のうなる音に鼓舞され、常にもなく勇敢でした。尾根筋を走っている箱橇の中で、思いきり体を左右に傾け、風の意のままではなく、滑走を操りたいと思うようになったのです。

 凧は尾根筋に向かうものの、箱橇は沢筋に走ろうとします。

 子供の握った糸は箱橇から、彼をもぎり取るような勢いで、上体を右に引きました。子供はかきもちを口に入れたまま、渾身の力でふんばりました。凧糸がものすごいうなりを発しましたが、子供は箱の中でのけぞって、これに抵抗をし続けました。

 ガクンと強い障撃があり、橇はいきなり止まりました。
 凧糸のうなりが、キュウキュウという、鼠の鳴き声のように変はり、それでいて、あい変わらず、子供の手に巻きつけられた糸は、天の方向にピアノ線のようにピンと張りつめられたままでした。

 ふりあおぐと、西日を浴びて、巨大なトゲのかたまりのような、冬枯れの楓の木立ちの一枝に、凧糸が絡み込んでいました。
 その先に、滑空をいきなり遮られ、憤怒のあまりに全身を震はせて中空に浮かぶ、凧がありました。

 糸を引き寄せると、楓の枝は、それなりにしなり、橈んだ枝は少年と凧の引き合いに、まるで生きものの声のような音を発しました。それは不機嫌そうな唸り声とも、苦しんでいる呻き声とも聞こえたのです。



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