トコ【草の宿(7)】

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草の宿(7)

 橇の底に、こびりついた雪の固まりを、手袋でこそぎ落としていると、ミヤコさんが声をかけてくれました。

 ミヤコさんは中学生で、誰よりも抜きんでて、スキーがうまいことを、子供の彼も知っています。

「ワックス塗った?塗ってもらった?」
「ローソクを塗ってもらったよ」
「そうか、ローソクは、この雪には無理なのね。パラフィンがあるよ。塗ってやろうか?」
 ミヤコさんがヤッケから取り出したパラフィンの箱を見て、子供の彼は叫び声をあげました。
「あ、トコだ!」
 ミヤコさんが笑いました。その黒く日焼けした顔はやさしそうでした。
「へえ、トコを知ってるんだ」
「知ってる。でも塗ってもらったことない」

 ワックスをスキーの滑走面に塗る大人たちは、何度も見ています。子供は、『トコ』というパラフィンに、長い間あこがれていたのでした。

 わくわくしながらミヤコさんの手もとを覗きこみました。

 箱の中は六つに仕切られ、それぞれに、異なった色のパラフィンが収まっています。白、黄、赤、青、黒、銀のそれぞれのパラフィンは、均等に使ひ込まれて三分の二ぐらいに減っていました。

 上手なスキーヤーのパラフィンは、そのように均等に減ってゆくのだと、それは少年が、もう少し成長してから知った知識かもしれません。でも、夢の子供は、すでにその事を知っているのです。
 子供は尊敬の目で、ミヤコさんを見上げました。ヘタクソなスキーヤーのパラフィンは、白と銀だけが極端に減っているのだと、子供の彼は確信していたのです。

「青がいい。青、塗って」
 子供の少年がせがむと、ミヤコさんが言いました。
「青が好きなの。でも、雪は湿ってるよ。すごく湿ってる。銀がすべるけど、青にする?」
「じゃあ、銀」
「すべった方がいいもんね。よし、塗ってやろう」

 ふと甘いにおいがして、子供はミヤコさんをあおぎ見ました。

「ねえ、トコって甘いの?」

 ミヤコさんは声を出して笑いました。

「パラフィンが甘いなんて。おなかすいてきたんでしょ?」

 しかし、甘いにおいは、確かにあったのです。パラフィンを塗る、ミヤコさんの手もとから、それは漂ってくるのでした。

 『これは夢だ!』

 少年は声に出して言ってみて、そして、やっとついに、目覚めるのです。

 鼻の奥に、なんだか、夢の甘いにおいが残っているようです。

 少年は起き上がり、闇の中に目をこらしました。
 こうした夢を、なぜかしばしば見るのです。なぜだろうと、少年は思います。
 あまりにも鮮明で、その鮮明であることで、夢に気づく、そんな夢を、このところ見続けているのです。

 なぜか溜息がでました。夢の続きを、辿りたいのです。

 あの時、箱橇は風になぶられ、どこまでも走りました。

 凧糸が緩むことは、ついになく、幼い彼の、遊びの天地を越えて、橇は走りつづけました。

 不安が胸に湧いたのは、母親について上った小山の上から、はるかに望んだ、玄之介沢の栃の木の下を走り抜けた時でした。
 母が教えてくれたのです。この界隈で、一番立派な、大きな木が、あの木だと。

 少年は、その木の根元まで行きたいと、せがみましたが、母は隈笹の薮をこぐのは大変だから、今度にしようと子供の彼を諭したのでした。

 見まちがえる筈は、ありませんでした。

 それは何度も、遠くから望んだ、枝ぶりも、一際猛々しい、栃の老木だったのです。

 この木のところまで来た、と思ったとき、少年は走り続けることに、いきなり不安を感じたのでした。



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