草の宿(4)
左の人差指が、甘がみをしたように、かすかに痛みました。
今日の午後、激しい勢いでくり出てゆく、凧の糸にこすられた指です。
少年は、そのかゆみを伴った痛みのある、指を口に含みました。指さきに流れる血が、トクトクと脈打っているのが、舌先に感じられます。
炬燵に足を入れ、指を口にふくんで、まどろみました。
いくつもの風景の記憶、情景の断片が、少年の夢の中を流れて行きました。
水底から湧き上がる、あぶくのやうに、消えてはまた別の夢が現われるのです。
夢の中で、少年は小山の上に、立っています。
小山から、見下ろす、そこに、集落がありました。
夕刻の鶏鳴が、満開の山桜に埋められた、草敷きの屋根の向こうから響いてきます。日暮れ時の鶏鳴は、なんだか寂しく聞こえます。
西の空から広がった夕焼けを、鶏も仰いでいるのでしょうか。
夢は、不意にそこで途切れ、異なった世界に少年は、運ばれました。
少年は大きな石の上で遊んでいます。
石と石を擦り合わせると、灰色の粉がこぼれました。
もう長いこと、その遊びを続けていたようです。
少年が遊んでいた大石は、地面から半分がた、苔と蔦に覆われていました。
石の上には、クロウスゴの小さな木が、幾本も繁っています。父母はクロウスゴをフレップと呼んでいたので、少年もこの植物を、そう呼んでいました。
蔦の若芽は、不思議な匂ひがします。
それは、食べられる植物のにおいがします。四歳の少年は、それより以前に、この葉を食べたような気になって、しかたがありませんでした。
少年は、母に、何度も、
「この葉は食べられるの?」と、聞きました。
母は不審な面もちで、
「食べられないよ、これは」と、答えるのでした。
クロウスゴは秋になると、青い実生が、白く粉を吹いた、柔らかな紫色になり、そのころになると甘味が濃くなります。
『デデッポー、なんで啼く。
豆くれ。
何する。
小豆まんま、炊いて食う』と、父が教へてくれました。
しかし、山鳩の声は、ただひたすらに、
『デデポッポー、デデッポッポー』
と、繰り返しているようにしか、少年には聞こえませんでした。
少年は、苺を摘んでいました。
アカハラとオオルリが啼きかわしています。
空は夕焼けに染まり、その空を見上げながら、少年はあの大石の上で遊んだ日々を思い起こしています。
夢の中で、少年は不意に、七・八歳になつています。
野鳥の囀りのなかで、少年は戻らぬ日々を、はっきりと知りました。
寂しさが、突然に、あたりを満たしました。
このような気持ち、このような感情というのは、これから先、幾度となく自分を包み込むことになるだろうと、その時、少年は、はっきりと予感しました。
しゃがんだまま、みじろぎし、少年は少し泣きました。
初雪が、道のあちこちに残っていました。
少年は、山へ続く道を登り、そして降りてきたところです。
空は曇っていました。
遠い、山あいに見える、草の原。
そこだけが金色に輝いていました。曇の切れ間から、そこだけに陽光が射し込んでいたのです。
あれは、夏の日に行ったことがある草の原です。あの時、ヤナギランが咲いていました。
春の日。
それは常にも増して大雪の降った年でした。
雪融けの水は、川になって道を流れました。
流れる水は、雪融けで泥になった道の様相を、大いに変えました。
少年は、毎日、道が変貌するさまを、見つめながら歩いたのです。
間断なく、脈絡なく、その夜、少年の夢の幻燈フィルムは、千切れてはつながり、つながつては、千切れ続けるのでした
テクノラティプロフィール
左の人差指が、甘がみをしたように、かすかに痛みました。
今日の午後、激しい勢いでくり出てゆく、凧の糸にこすられた指です。
少年は、そのかゆみを伴った痛みのある、指を口に含みました。指さきに流れる血が、トクトクと脈打っているのが、舌先に感じられます。
炬燵に足を入れ、指を口にふくんで、まどろみました。
いくつもの風景の記憶、情景の断片が、少年の夢の中を流れて行きました。
水底から湧き上がる、あぶくのやうに、消えてはまた別の夢が現われるのです。
夢の中で、少年は小山の上に、立っています。
小山から、見下ろす、そこに、集落がありました。
夕刻の鶏鳴が、満開の山桜に埋められた、草敷きの屋根の向こうから響いてきます。日暮れ時の鶏鳴は、なんだか寂しく聞こえます。
西の空から広がった夕焼けを、鶏も仰いでいるのでしょうか。
夢は、不意にそこで途切れ、異なった世界に少年は、運ばれました。
少年は大きな石の上で遊んでいます。
石と石を擦り合わせると、灰色の粉がこぼれました。
もう長いこと、その遊びを続けていたようです。
少年が遊んでいた大石は、地面から半分がた、苔と蔦に覆われていました。
石の上には、クロウスゴの小さな木が、幾本も繁っています。父母はクロウスゴをフレップと呼んでいたので、少年もこの植物を、そう呼んでいました。
蔦の若芽は、不思議な匂ひがします。
それは、食べられる植物のにおいがします。四歳の少年は、それより以前に、この葉を食べたような気になって、しかたがありませんでした。
少年は、母に、何度も、
「この葉は食べられるの?」と、聞きました。
母は不審な面もちで、
「食べられないよ、これは」と、答えるのでした。
クロウスゴは秋になると、青い実生が、白く粉を吹いた、柔らかな紫色になり、そのころになると甘味が濃くなります。
『デデッポー、なんで啼く。
豆くれ。
何する。
小豆まんま、炊いて食う』と、父が教へてくれました。
しかし、山鳩の声は、ただひたすらに、
『デデポッポー、デデッポッポー』
と、繰り返しているようにしか、少年には聞こえませんでした。
少年は、苺を摘んでいました。
アカハラとオオルリが啼きかわしています。
空は夕焼けに染まり、その空を見上げながら、少年はあの大石の上で遊んだ日々を思い起こしています。
夢の中で、少年は不意に、七・八歳になつています。
野鳥の囀りのなかで、少年は戻らぬ日々を、はっきりと知りました。
寂しさが、突然に、あたりを満たしました。
このような気持ち、このような感情というのは、これから先、幾度となく自分を包み込むことになるだろうと、その時、少年は、はっきりと予感しました。
しゃがんだまま、みじろぎし、少年は少し泣きました。
初雪が、道のあちこちに残っていました。
少年は、山へ続く道を登り、そして降りてきたところです。
空は曇っていました。
遠い、山あいに見える、草の原。
そこだけが金色に輝いていました。曇の切れ間から、そこだけに陽光が射し込んでいたのです。
あれは、夏の日に行ったことがある草の原です。あの時、ヤナギランが咲いていました。
春の日。
それは常にも増して大雪の降った年でした。
雪融けの水は、川になって道を流れました。
流れる水は、雪融けで泥になった道の様相を、大いに変えました。
少年は、毎日、道が変貌するさまを、見つめながら歩いたのです。
間断なく、脈絡なく、その夜、少年の夢の幻燈フィルムは、千切れてはつながり、つながつては、千切れ続けるのでした
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