夜の楼
男とウチは潅木の下で互ひに次の行動がわかつてゐるみたいに、なんとなく足踏みをしたんや。日が暮れかかつとつた。男は七輪の上に今まで自分が座はつてゐた莚をかぶせ、木箱だけを持つてウチを促すやうに見上げるんやつた。
ウチの空腹は半ば満たされ、嘔吐感は消え、心なしか寒気も前よりは穩やかになつた気がするのんやつた。アイスバーンの鉢の縁では相変はらず人々が騒いでゐるのんや。橇の流れ落ちる音も後を絶たないのんやつた。ウチにはもう小山の上に用はないわ。当初の目的は達したのやし。ウチは歩きだしたんや。餠売りの男はウチと並んで歩きだしとつた。
「この町の人じやないね」
男が聞いゐたんや。押し殺したやうな声になつてた。ウチはうなづいたんやわ。
「それなら、あたしの次の仕事が始まる」
「何やの?」
「もう汽車はありません。お泊りになるしかない。あたしはトーキューローですよ」
ウチは、この男は宿の客引きかしらんと考へたんやわ。何と答へたらええのかわからんと默つてゐたんやわ。ウチはこの町に今夜の宿を探すことやら考へてゐなかつたからや。
せやけど男の言ふことは正しいのかもしれへん。日が暮れるこの時刻に、あの駅から出發する汽車は無いやろし。そないな気がするのんや。
男は、ウチが従ふことに決まつてゐるとでもいふみたいに、ウチの先になつて歩きはじめてゐるのんや。その言ひ草や態度に全きありがたい一念を覚へるのやおまへんが、ウチには他にアテは無いのや。
その時ウチの背後の歓声が、ひときわ嵩張つたんやわ。雪雲と寒気の空に、つんざく物の音が續けて起こつたんやわ。ほんで、ぜえんぶの音が止んや。ウチは振り返つたんやわ。氷の壁の周辺に立つてゐる群衆が凍てついたやうに動きを止め、鉢状の壁の底を身をかがめて見おろしてゐるのんや。
ウチも逆戻りして人々の背越しに氷の壁を見おろしたんやわ。青い氷の壁に、一本の紅のラインがまつすぐに走つてゐるのんや。銹色の滑走体が一台、鉢の底で独楽みたいに回転してゐるのんや。紅のラインはその回転体の手前で消滅してゐるのんや。
『蕪のオロシだ・・・・』
腹の底からこみ上げてくるものがあつて、ウチは体の向きを変へたんやわ。餠売りの男がこつちを見て、ウチを待つてゐる。その目はさぐるみたいにウチの表情を見つめてゐるのんや。
「よくある事ですよ」
男はウチの先になつて小山を下りながら言つたんやわ。
「・・・しかし、さつきのは蕪でございますよ」
ウチは不快感を腹の中に膨らませながらも、男について行つたんやわ。
坂下から吹き上げてきた強い風が、脚から頭にむけて体から何ぞを搾り出さうとでもするかみたいに揉み上げたんやわ。小さな龍巻がウチたちに瞬時纏わり、天に抜けたんや。それは乾いた雪の粉の大きな螺子状のものになつて、天から降つたものを天に鋭い勢いで束の間ねぢこみ戻し、消えたんやわ。
「人が消えるなんて、ありきたりのことですよ」
ウチ逹は、龍巻が失せるまで身をすくめてゐたけど、男が不意に身をよぢつてつぶやいたんやわ。
「天にましまする・・・」
「天にある何ぞの信者なん?、あんた」
「とんでもございません。天の月さん、お日さんだけが消えんだけで、他のものはたまさか消えたりゐたしますですよ」
ウチらは速足で坂を下つたんやわ。いっぺん暖まつた体がどんどん冷えていくのを覚へて、ウチはますます足を速めたんや。男も背後のウチの足音にせきたてられる気がするのんか、足速になつてた。
やがてウチ逹は駈けだし、坂道が平担な道になつてもなほ駈け續けたんやわ。物を食べた直後やつたから脇腹に痛みが起きたが、がまんして男の後ろにピタリと尾いてウチは走りつづけたんや。油汗が額に湧きだし、すなはち体が暖まつたんやわ。
町中に入つてウチらの歩調が普通になるころ、日は完全に落ちてゐたん。せやけど並んでゐる家々に明かりは入つてゐません。ウチが先刻歩いた通りではないみたい。屋並に人の気配が丸で無いのんや。石炭の煙のにほひも人声もなく、犬の鳴き声すら聞こえへん。人の靴が踏んで堅く凍てた道があるのが不思議な程や。
ウチは前を行く男に声をかけやうかと思つたけど、止めたんやわ。客引きにしては無愛想に過ぎるこの男に不審な気がしてきてゐたのや。どこまで行くのかもわからんのでウチは焦立ち始めてもゐたんやわ。ウチは焦立つと寡黙になる性格なのや。
廃屋みたいな屋並を小一時間もかけて歩きそれを抜けた途端、ウチは一瞬仰天して目をおほつたんやわ。
赤や青や黄や緑やらの原色の強い光が注いでゐたんやわ。無数の色の光が広場の雪を染めて映えてゐるのんや。光は見えるが物のかたちが丸で見えへん。ウチはまごつきながらも目を細めて光の源を探して天をあふいや。真黒な空のいたるとこで原色の光源が燃えてゐるのんや。
「さあ、お客はん、ここですよ。冬窮楼です」
男は光の広場を右手で示し、ウチを振り返つたんやわ。光はあるけど、建物らしいものはなあんも見えへん。ウチは呆れて男を見たんやわ。
「しつかり見なさい。あれですよ」
男はかすかに笑ひを含んだ声で言ひ、広場に向けてなほも手をさしのばしたママでゐるのんや。ウチは目を凝らしたんやわ。実体が見え、ウチは胆が縮んで腹の中を旋回するのを覚へたんやわ。
どぎつい色彩の光が途切れた広場の向かう、そこに黒い幕みたいに垂れた夜の闇と思はれたものが、断崖みたいにそそり立つ巨大な建物だつたんやわ。
ウチは空を見上げたん。
空はなかつたんやわ。
空はそこで封じられ、たつた今空と思つたのは建物の壁の一部だつたんや。更に顔をあふ向けて、はじめてそこに壁の闇色よりは、かすかに藍色地を含んだ夜空があつたんや。原色の光源は壁にあり、そこから広場に光の瀑布を放出してゐたのんや。
ウチは動転したまんま壁の闇に向かつて彩光の中に踏み込んだんや。光はウチの体を染め、吐く息をも染めたんや。
ウチは光と、光に染まつた雪のにほいにめまひがし、ゆらめきながら闇に至つたんやわ。ウチは闇の真下に立ち、それに触れたんやわ。
闇は、石や木や煉瓦や土やらを貼りつめ、嵌め込み、層をなして積み上げられてゐるのんや。注がれる光の高さははかりかねたんやわ。大いなる闇の斜面が世界を遮断してゐるのんや。
そこに入り口となるべき扉はなかつたんやわ。非常階子みたいな粗末な階段があり、その上にテラスが張りだしてゐるのんや。ウチは階段の手すりをつかんや。客引きの男がそばにゐないことに気づいて振り返つたん。
男は広場の向かうにさつきのまんまに立ち、ウチを見てゐるのんや。右腕を振り、階段を上れといふ仕草をしたんやわ。男の左手には、まだ鞄みたいに吊り手がついた焼餠のタレの木箱がぶら下がつてゐるのんやつた。
ウチはうなづき、男が笑ふのを認めて階段を上つたんやわ。
テクノラティプロフィール
男とウチは潅木の下で互ひに次の行動がわかつてゐるみたいに、なんとなく足踏みをしたんや。日が暮れかかつとつた。男は七輪の上に今まで自分が座はつてゐた莚をかぶせ、木箱だけを持つてウチを促すやうに見上げるんやつた。
ウチの空腹は半ば満たされ、嘔吐感は消え、心なしか寒気も前よりは穩やかになつた気がするのんやつた。アイスバーンの鉢の縁では相変はらず人々が騒いでゐるのんや。橇の流れ落ちる音も後を絶たないのんやつた。ウチにはもう小山の上に用はないわ。当初の目的は達したのやし。ウチは歩きだしたんや。餠売りの男はウチと並んで歩きだしとつた。
「この町の人じやないね」
男が聞いゐたんや。押し殺したやうな声になつてた。ウチはうなづいたんやわ。
「それなら、あたしの次の仕事が始まる」
「何やの?」
「もう汽車はありません。お泊りになるしかない。あたしはトーキューローですよ」
ウチは、この男は宿の客引きかしらんと考へたんやわ。何と答へたらええのかわからんと默つてゐたんやわ。ウチはこの町に今夜の宿を探すことやら考へてゐなかつたからや。
せやけど男の言ふことは正しいのかもしれへん。日が暮れるこの時刻に、あの駅から出發する汽車は無いやろし。そないな気がするのんや。
男は、ウチが従ふことに決まつてゐるとでもいふみたいに、ウチの先になつて歩きはじめてゐるのんや。その言ひ草や態度に全きありがたい一念を覚へるのやおまへんが、ウチには他にアテは無いのや。
その時ウチの背後の歓声が、ひときわ嵩張つたんやわ。雪雲と寒気の空に、つんざく物の音が續けて起こつたんやわ。ほんで、ぜえんぶの音が止んや。ウチは振り返つたんやわ。氷の壁の周辺に立つてゐる群衆が凍てついたやうに動きを止め、鉢状の壁の底を身をかがめて見おろしてゐるのんや。
ウチも逆戻りして人々の背越しに氷の壁を見おろしたんやわ。青い氷の壁に、一本の紅のラインがまつすぐに走つてゐるのんや。銹色の滑走体が一台、鉢の底で独楽みたいに回転してゐるのんや。紅のラインはその回転体の手前で消滅してゐるのんや。
『蕪のオロシだ・・・・』
腹の底からこみ上げてくるものがあつて、ウチは体の向きを変へたんやわ。餠売りの男がこつちを見て、ウチを待つてゐる。その目はさぐるみたいにウチの表情を見つめてゐるのんや。
「よくある事ですよ」
男はウチの先になつて小山を下りながら言つたんやわ。
「・・・しかし、さつきのは蕪でございますよ」
ウチは不快感を腹の中に膨らませながらも、男について行つたんやわ。
坂下から吹き上げてきた強い風が、脚から頭にむけて体から何ぞを搾り出さうとでもするかみたいに揉み上げたんやわ。小さな龍巻がウチたちに瞬時纏わり、天に抜けたんや。それは乾いた雪の粉の大きな螺子状のものになつて、天から降つたものを天に鋭い勢いで束の間ねぢこみ戻し、消えたんやわ。
「人が消えるなんて、ありきたりのことですよ」
ウチ逹は、龍巻が失せるまで身をすくめてゐたけど、男が不意に身をよぢつてつぶやいたんやわ。
「天にましまする・・・」
「天にある何ぞの信者なん?、あんた」
「とんでもございません。天の月さん、お日さんだけが消えんだけで、他のものはたまさか消えたりゐたしますですよ」
ウチらは速足で坂を下つたんやわ。いっぺん暖まつた体がどんどん冷えていくのを覚へて、ウチはますます足を速めたんや。男も背後のウチの足音にせきたてられる気がするのんか、足速になつてた。
やがてウチ逹は駈けだし、坂道が平担な道になつてもなほ駈け續けたんやわ。物を食べた直後やつたから脇腹に痛みが起きたが、がまんして男の後ろにピタリと尾いてウチは走りつづけたんや。油汗が額に湧きだし、すなはち体が暖まつたんやわ。
町中に入つてウチらの歩調が普通になるころ、日は完全に落ちてゐたん。せやけど並んでゐる家々に明かりは入つてゐません。ウチが先刻歩いた通りではないみたい。屋並に人の気配が丸で無いのんや。石炭の煙のにほひも人声もなく、犬の鳴き声すら聞こえへん。人の靴が踏んで堅く凍てた道があるのが不思議な程や。
ウチは前を行く男に声をかけやうかと思つたけど、止めたんやわ。客引きにしては無愛想に過ぎるこの男に不審な気がしてきてゐたのや。どこまで行くのかもわからんのでウチは焦立ち始めてもゐたんやわ。ウチは焦立つと寡黙になる性格なのや。
廃屋みたいな屋並を小一時間もかけて歩きそれを抜けた途端、ウチは一瞬仰天して目をおほつたんやわ。
赤や青や黄や緑やらの原色の強い光が注いでゐたんやわ。無数の色の光が広場の雪を染めて映えてゐるのんや。光は見えるが物のかたちが丸で見えへん。ウチはまごつきながらも目を細めて光の源を探して天をあふいや。真黒な空のいたるとこで原色の光源が燃えてゐるのんや。
「さあ、お客はん、ここですよ。冬窮楼です」
男は光の広場を右手で示し、ウチを振り返つたんやわ。光はあるけど、建物らしいものはなあんも見えへん。ウチは呆れて男を見たんやわ。
「しつかり見なさい。あれですよ」
男はかすかに笑ひを含んだ声で言ひ、広場に向けてなほも手をさしのばしたママでゐるのんや。ウチは目を凝らしたんやわ。実体が見え、ウチは胆が縮んで腹の中を旋回するのを覚へたんやわ。
どぎつい色彩の光が途切れた広場の向かう、そこに黒い幕みたいに垂れた夜の闇と思はれたものが、断崖みたいにそそり立つ巨大な建物だつたんやわ。
ウチは空を見上げたん。
空はなかつたんやわ。
空はそこで封じられ、たつた今空と思つたのは建物の壁の一部だつたんや。更に顔をあふ向けて、はじめてそこに壁の闇色よりは、かすかに藍色地を含んだ夜空があつたんや。原色の光源は壁にあり、そこから広場に光の瀑布を放出してゐたのんや。
ウチは動転したまんま壁の闇に向かつて彩光の中に踏み込んだんや。光はウチの体を染め、吐く息をも染めたんや。
ウチは光と、光に染まつた雪のにほいにめまひがし、ゆらめきながら闇に至つたんやわ。ウチは闇の真下に立ち、それに触れたんやわ。
闇は、石や木や煉瓦や土やらを貼りつめ、嵌め込み、層をなして積み上げられてゐるのんや。注がれる光の高さははかりかねたんやわ。大いなる闇の斜面が世界を遮断してゐるのんや。
そこに入り口となるべき扉はなかつたんやわ。非常階子みたいな粗末な階段があり、その上にテラスが張りだしてゐるのんや。ウチは階段の手すりをつかんや。客引きの男がそばにゐないことに気づいて振り返つたん。
男は広場の向かうにさつきのまんまに立ち、ウチを見てゐるのんや。右腕を振り、階段を上れといふ仕草をしたんやわ。男の左手には、まだ鞄みたいに吊り手がついた焼餠のタレの木箱がぶら下がつてゐるのんやつた。
ウチはうなづき、男が笑ふのを認めて階段を上つたんやわ。
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