かたちから脱するのだと、思つてはみるものの【ブログ入門記(8)】

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ブログ入門記(8)
 完璧なるネタ切れです。毎日更新の決意に、暗雲濃し。

 かういふ時は、風呂にでも入るしかありません。

 私的・入浴講座といふのを書くことにする。このさい、内容がどうのとか言つてゐられない。

 遊びの気分で、あるひは寛ぎの気分で、お風呂に入つたことが無い。
 何にしろ、心をゆつたりと解放して、ノビノビといふ気分になるために、なにかにかかるといふことが無い。
 しかし、人に聴く、世人は、さうしたことが可能であると。
 ここではひとつ一念発起して、さうした気分を学ぶためのとつかかりとして、お風呂を考察してみませう。

 遊び、寛ぎ、精神的な解放のためといふのであるから、積年の垢をこすり落とす、今日のヤナコトを洗ひ流す、といふのとは訳が違ふ。次元が違ふ。

 温泉といふものに入つたことが無いことは無いのだが、とても遊び、寛ぎの気分ではなかつた。

 人生上の、煩瑣事の一つだと思ひながら入つた訳ではないけれども、その境地は未踏の分野である。

 しかしどこから書けばいいのだ、さつぱりわからん。

 寛ぎの風呂の定義をすべきものだらうか。いちいちの行為をなぞつていくのが一番だらうな。

 まず、遊びのため、解放のためといふくらひだからセカセカ身体をこすつたりしてはならないのだらう。

 さうすると石鹸、シャンプー、軽石、剃刀なんぞを持つて行くのは、はばかるべきなんだらうか。リンス、へちまなぞも御法度といふものだらうか。

 しかしこれが鴬の糞とか、糠袋といふことになるとどうなるだらう。いづれも世俗的なものといふことになるのだらうか。この文はとどのつまりは仙人的お風呂の入り方を考究してゐるのだがなあ。

 とはいつてもだ、何にしろ形から入るといふのは、そも俗な入り方といふものではあるまひか。さうでせう。ここは思ひ切つて、所持する品なぞは気にかけないのが一番といふことで済ませやう。

 要するに持たざるもよし、持つもまたよしといふことです。

 手拭ひ一本でもよし、持ちたいといふのならば貯金通帳、株券、百科辞典、鍋、釜、肉切り庖丁などなどなんでも持つて行くがよろしいのだ。形では無い、要はココロだ。

 さういふ訳でタオルをマフラーにしてであれ、唐草模様の風呂敷包みを背負ひ込んでヨロヨロと夜逃げもかくやの態であれ(クドすぎるかな?)、それはさてをき入ることにする。

 ガラス戸を開いて入る。その入るスタイルには二通りありますね。股間に手を持つていくやりかたと、手は体側から内側には持つてこないやりかたです。
 あれは何だか両者の間の、人間的深淵の底にある何ものかの相違だといふ気がするんだが。
 股間を手でおおふのは、何か礼儀の一つだとかたくなに信じてゐる方と、人前で股間に手をやるなぞは、ストリッパー以外はしてはならない行為であると信じてゐる方との違ひと申しませうか。

 何だか信ずるところに大きな相違があるやうです。

 言つてみれば信念なぞといふものは、酔漢が口から発して始めて明らかになるところの筈を、ただに右手の位置だけで発現するといふ、まことに特異な状況である。そんな考察がお風呂の入り方と何の関はりがあるんだと言はれれば、それもさうだ。

 やつぱりここでも形から入ることは止め。右手がどうであれ気にしないことだ。やりたいやうにやるがよろし。風のやうに入るもよし、雲龍型で入りたいといふならば、それもまたよしといふことにしてをかう。

 どうしても形から脱することができません。

 お風呂で寛ぐ、遊びの神随を得るにはかうした形から入る精神を棄てなければならないのだらう。奥儀を極めやうとするためには修業がやつぱり必要なんです。

 心頭を滅却したならば、沸騰してゐるお風呂の中で人間のオデンができてゐた、といふくらひになるまで修業することなんでせうか。
               (続く)

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