黒いシューバ
ウチの歩調は、適度の体温のために定められたわ。
かなり速足で歩いてゐたけど息をはずませなかつたんや。これ以上速めれば防寒衣の内側で発汗するやろ。これ以下の速度にすれば寒気がしみこんでくるやろし。せやからウチはその速度を一定に保つて歩いたんや。
凍結した雪の路面は防寒靴の厚い底で、骨が砕けるみたいな乾いた音をたててゐるのんや。骨を踏み砕いて歩く思ひは、それが獣の骨や鳥の骨ではなく、人間の骨であることを連想させるんやつた。
ウチは町中を歩いてゐたのやけど、余りの寒気のためか人に出会ふことはなかつたんやわ。駅で駅員を見て以後、この町中に人影を見てゐないんやわ。
せやけど、人は住んでゐるのんや。住宅の屋根から、暖房の白い煙が上がつてゐるし、物干し場には、風にねぢれたまんまに、凍てついた洗ひ物が吊られてゐるのんや。
物を売る店のガラス戸は堅く閉ざされてゐるけど、この寒気の中で店先を開放するのはばかげてゐるからや。
そのガラス戸には灰色のモールみたいな氷の膜が貼りついてゐるのんやけど、微かに商品を照らす人工の光が、そこににぢんでゐたのんや。
ウチは用があるわけでは無いから、ただ歩くの。町に着いたのやから町を歩いてみるのんや。町を眺めるために歩いてゐたのや。
ウチはこの町を知りまへん。
町の名を知らんし、駅がなんといふ名だつたかも、もう忘れてゐるのんや。数分前までウチは列車の中で眠つてゐたんやわ。これ以上先にはこの列車は行かないと車掌が知らせにやつてきたんやわ。
雪のせいで進まないのか、終点やから進まないのか確かめる気にもならなかつたんやわ。ウチは切符を持つてゐなかつたから、車掌に金を払つて駅を離れたんやわ。そないなに大きくはない、せやけど小さくも無い町や。駅舎はさう思へるだけの大きさだつたんやわ。
ウチの歩いてきた道は、半時間ほどで家並を抜けたんやわ。急な勾配の坂道になつたんやわ。坂の上に雪雲に塗り込められた空があるのんや。
雪雲から降つてくるやうな、覚束ない音が聞こえるのんや。ウチは坂を見上げて音を聴く。遠い山を吹く風の音に似てゐるのんや。幾たびか間断をもつて潅木を揺るがす吹雪のやうな音がしたんやわ。それは人声なのや。それも大勢の人間が一斉に発しては途切れる熱狂した歓声なんや。
ウチはひもじかつたわ。
長いこと、ものを食べてへんかつたし。食べてない筈は無いのんやけど、忘れるほどにしか食べてへんかつたんや。
喉元に熱いものがこみ上げて、吐きさうになつたんやわ。ウチは空腹が募つてある瞬間になるとめまひと吐き気に襲われる体質なのや。雪を一つかみ口に入れたんやわ。それで喉元の熱い固まりをなだめすかしてをひて、ほんで坂道を上つて何ぞを食べやうと思つたんや。人がぎやうさん集まつてゐると思はれる坂の上に、食べ物が無いわけが無いちうわけやわ。
得体の知れへん様々な旗を吊したロープが縦横に張りめぐらされてゐたんやわ。黒いシューバを着た人間が大量にゐるのんや。大人も子供も年寄りもゐるのんや。男も女もゐるのんや。ウチは連中のすぐ後ろに近づいたんやわ。
ウチが上つてきた坂道とは逆方向の斜面に向けて、みんなの叫び声が飛んで行くの。そこには巨大な鉢状のアイスバーンが流れ落ちてゐるのんや。叫び声は青黒い氷の表に反響して、石綿みたいな雪雲の空にうなりを伴つて吸ひ込まれていつてたわ。
錆色の金属の橇が、頭の芯に刺さるみたいな音をたてて氷の鉢の中に飛び込んでく。体を持つていかれさうな強い風が吹きまくつてゐるのんや。ウチは背のびをして群衆の頭越しに辷り墜ちていく橇を見やうとするが、アイスバーンの鉢の底は見ることがでけへん。人々のやうにアイスバーンの縁に近寄ることはでけへんのや。
橇の凄まじい速度と、金属と氷のきしむ音と、吹きまくる風と氷の色と、ほんで空腹のせいで、そこまで行つたらウチは目まひを起こし、鉢の壁につんのめるだらうや。
凍結した斜面を、ウチの体はオロシ金でこすられる大根のやうにすり減られつつ流れおち、鉢の底に到るときにはウチは無に帰してゐるんやろ。碧い氷の壁にウチの軌跡の証左が、血と肉片とでラインを描いてるんやろや。
ウチは人々の背後でへたり込みさうになりながら、かうした人の集まるとこにはつきものの食ひものの屋台を捜したんやわ。旗のロープを結はへた潅木の根方で小さな男が七輪でなにかを焼いてゐるのんや。ウチは品物を確かめるために近寄つてみたんやわ。
黒いシューバの襟の中から、小さい細い顔を上げて男がウチを見たんやわ。襟元から黒羊の毛がマフラーのやうにはみ出して、男の顎に髯があるかのやうに見えるのんや。耳当てを頭の上で結はへてゐる防寒帽が大きすぎて男の額はすつぽりおほはれてゐて、庇の下からからうじて出てゐる両の目の下半分がウチを見上げたんやわ。その目は霜をかぶつたみたいに白つぽかつたわ。
ウチは男の顔から視線をそらせて七輪の上を覗き込んや。煙草の箱程の大きさの餅からかすかな煙が上つてゐるのんや。
「それは売るのん?」
男は帽子の庇をかるく上下に揺らしてうなづゐたんやわ。
「売りまんがな、なんぼでも。餅を売るのもあたしの仕事なんや」
ウチは七輪を挟んで男と向き合つてしやがみ込んだんや。
「ひとつ、ちやうだい。どうやつて食べるん?」
「これをつけて食ひなさい。どれでも好ささうなのをつけなさい」
男は七輪の旁に置いてあつた木の箱を開いたんやわ。鞄みたいに握り皮がついた木の箱の中は、パレットみたいに小さな枡でしきられてゐるのんや。枡の一つ一つに色彩の異なつた得体の知れへんものが詰まつてゐるのんや。甘酸つぱいにほひがしたんやわ。
「その赤いのは何なの」
「これは蕪のオロシ。葡萄酒と蜂蜜が當世風の味わひや」
ウチは焼餠を赤いゾル状の桝の中味に浸し、空をあふいで口に入れたんやわ。指先から赤い液が滴り、足元の雪に散るのんや。血みたいな色やけど、それはうまかつたんやわ。一口食べると食慾がなほ盛んになつたんやわ。
ウチは七輪から餠をつかみ、木箱の枡の中のゾルやらゲルやら固型のものをなすりつけ次々と口に運んだんや。男は默つてウチの食事を眺めてゐるのんや。
ウチが最後の餠を蕪に浸して口に放り込むと、男はゆつくりと腰を上げて七輪のおき火を雪の上にぶちまけたんやわ。水蒸気が湿つぽい悲鳴みたいな音とともに立ちのぼつて、いがらつぽい臭気を残して火はたちまちに消えたんやわ。あつた筈の小さなぬくもりが消えるのんや。
テクノラティプロフィール
ウチの歩調は、適度の体温のために定められたわ。
かなり速足で歩いてゐたけど息をはずませなかつたんや。これ以上速めれば防寒衣の内側で発汗するやろ。これ以下の速度にすれば寒気がしみこんでくるやろし。せやからウチはその速度を一定に保つて歩いたんや。
凍結した雪の路面は防寒靴の厚い底で、骨が砕けるみたいな乾いた音をたててゐるのんや。骨を踏み砕いて歩く思ひは、それが獣の骨や鳥の骨ではなく、人間の骨であることを連想させるんやつた。
ウチは町中を歩いてゐたのやけど、余りの寒気のためか人に出会ふことはなかつたんやわ。駅で駅員を見て以後、この町中に人影を見てゐないんやわ。
せやけど、人は住んでゐるのんや。住宅の屋根から、暖房の白い煙が上がつてゐるし、物干し場には、風にねぢれたまんまに、凍てついた洗ひ物が吊られてゐるのんや。
物を売る店のガラス戸は堅く閉ざされてゐるけど、この寒気の中で店先を開放するのはばかげてゐるからや。
そのガラス戸には灰色のモールみたいな氷の膜が貼りついてゐるのんやけど、微かに商品を照らす人工の光が、そこににぢんでゐたのんや。
ウチは用があるわけでは無いから、ただ歩くの。町に着いたのやから町を歩いてみるのんや。町を眺めるために歩いてゐたのや。
ウチはこの町を知りまへん。
町の名を知らんし、駅がなんといふ名だつたかも、もう忘れてゐるのんや。数分前までウチは列車の中で眠つてゐたんやわ。これ以上先にはこの列車は行かないと車掌が知らせにやつてきたんやわ。
雪のせいで進まないのか、終点やから進まないのか確かめる気にもならなかつたんやわ。ウチは切符を持つてゐなかつたから、車掌に金を払つて駅を離れたんやわ。そないなに大きくはない、せやけど小さくも無い町や。駅舎はさう思へるだけの大きさだつたんやわ。
ウチの歩いてきた道は、半時間ほどで家並を抜けたんやわ。急な勾配の坂道になつたんやわ。坂の上に雪雲に塗り込められた空があるのんや。
雪雲から降つてくるやうな、覚束ない音が聞こえるのんや。ウチは坂を見上げて音を聴く。遠い山を吹く風の音に似てゐるのんや。幾たびか間断をもつて潅木を揺るがす吹雪のやうな音がしたんやわ。それは人声なのや。それも大勢の人間が一斉に発しては途切れる熱狂した歓声なんや。
ウチはひもじかつたわ。
長いこと、ものを食べてへんかつたし。食べてない筈は無いのんやけど、忘れるほどにしか食べてへんかつたんや。
喉元に熱いものがこみ上げて、吐きさうになつたんやわ。ウチは空腹が募つてある瞬間になるとめまひと吐き気に襲われる体質なのや。雪を一つかみ口に入れたんやわ。それで喉元の熱い固まりをなだめすかしてをひて、ほんで坂道を上つて何ぞを食べやうと思つたんや。人がぎやうさん集まつてゐると思はれる坂の上に、食べ物が無いわけが無いちうわけやわ。
得体の知れへん様々な旗を吊したロープが縦横に張りめぐらされてゐたんやわ。黒いシューバを着た人間が大量にゐるのんや。大人も子供も年寄りもゐるのんや。男も女もゐるのんや。ウチは連中のすぐ後ろに近づいたんやわ。
ウチが上つてきた坂道とは逆方向の斜面に向けて、みんなの叫び声が飛んで行くの。そこには巨大な鉢状のアイスバーンが流れ落ちてゐるのんや。叫び声は青黒い氷の表に反響して、石綿みたいな雪雲の空にうなりを伴つて吸ひ込まれていつてたわ。
錆色の金属の橇が、頭の芯に刺さるみたいな音をたてて氷の鉢の中に飛び込んでく。体を持つていかれさうな強い風が吹きまくつてゐるのんや。ウチは背のびをして群衆の頭越しに辷り墜ちていく橇を見やうとするが、アイスバーンの鉢の底は見ることがでけへん。人々のやうにアイスバーンの縁に近寄ることはでけへんのや。
橇の凄まじい速度と、金属と氷のきしむ音と、吹きまくる風と氷の色と、ほんで空腹のせいで、そこまで行つたらウチは目まひを起こし、鉢の壁につんのめるだらうや。
凍結した斜面を、ウチの体はオロシ金でこすられる大根のやうにすり減られつつ流れおち、鉢の底に到るときにはウチは無に帰してゐるんやろ。碧い氷の壁にウチの軌跡の証左が、血と肉片とでラインを描いてるんやろや。
ウチは人々の背後でへたり込みさうになりながら、かうした人の集まるとこにはつきものの食ひものの屋台を捜したんやわ。旗のロープを結はへた潅木の根方で小さな男が七輪でなにかを焼いてゐるのんや。ウチは品物を確かめるために近寄つてみたんやわ。
黒いシューバの襟の中から、小さい細い顔を上げて男がウチを見たんやわ。襟元から黒羊の毛がマフラーのやうにはみ出して、男の顎に髯があるかのやうに見えるのんや。耳当てを頭の上で結はへてゐる防寒帽が大きすぎて男の額はすつぽりおほはれてゐて、庇の下からからうじて出てゐる両の目の下半分がウチを見上げたんやわ。その目は霜をかぶつたみたいに白つぽかつたわ。
ウチは男の顔から視線をそらせて七輪の上を覗き込んや。煙草の箱程の大きさの餅からかすかな煙が上つてゐるのんや。
「それは売るのん?」
男は帽子の庇をかるく上下に揺らしてうなづゐたんやわ。
「売りまんがな、なんぼでも。餅を売るのもあたしの仕事なんや」
ウチは七輪を挟んで男と向き合つてしやがみ込んだんや。
「ひとつ、ちやうだい。どうやつて食べるん?」
「これをつけて食ひなさい。どれでも好ささうなのをつけなさい」
男は七輪の旁に置いてあつた木の箱を開いたんやわ。鞄みたいに握り皮がついた木の箱の中は、パレットみたいに小さな枡でしきられてゐるのんや。枡の一つ一つに色彩の異なつた得体の知れへんものが詰まつてゐるのんや。甘酸つぱいにほひがしたんやわ。
「その赤いのは何なの」
「これは蕪のオロシ。葡萄酒と蜂蜜が當世風の味わひや」
ウチは焼餠を赤いゾル状の桝の中味に浸し、空をあふいで口に入れたんやわ。指先から赤い液が滴り、足元の雪に散るのんや。血みたいな色やけど、それはうまかつたんやわ。一口食べると食慾がなほ盛んになつたんやわ。
ウチは七輪から餠をつかみ、木箱の枡の中のゾルやらゲルやら固型のものをなすりつけ次々と口に運んだんや。男は默つてウチの食事を眺めてゐるのんや。
ウチが最後の餠を蕪に浸して口に放り込むと、男はゆつくりと腰を上げて七輪のおき火を雪の上にぶちまけたんやわ。水蒸気が湿つぽい悲鳴みたいな音とともに立ちのぼつて、いがらつぽい臭気を残して火はたちまちに消えたんやわ。あつた筈の小さなぬくもりが消えるのんや。
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