輝くハリエンジュ【草の宿(354)】
「見ろや、あれを」
男は窓から身を乗り出すようにのばして、一声、唸るように言いました。
「おじさん、どうしたんだい。おじさんの頭の上で、蚊のやつがワクワクして見下ろしているよ」
尋夫がからかうように言っても、男は窓からのばした上体を元に戻そうとはしません。窓の框から、外に転げ出しそうな姿勢です。
見ろと誘っておきながら、男は窓辺を離れません。凝然として、窓枠にはまりこんだかのようです。
「おじさん、月がそんなにきれいかい。満月ではなかったようだが」
澄み渡った夜の空を埋め尽くす星の多さ、そして月の燦とした輝きには、山に住みついた尋夫でも、見上げるたびに感歎してしまうのです。
天との距離を思えば、里から小屋のあたりまで登ったとて、なにほどの違いがあるものかと思うのですが、小屋から見上げる夜の輝きは、かつて見知った星や月の姿ではありません。
「・・・・月ではないよ」
男はかすれたような声でぽつりと言い、やっと窓辺を離れました。男と入れ替わりに窓から身を乗り出して、男の見ていた方角に視線をやって、尋夫は息を呑みました。
それがなになのか、にわかにはわかりませんでした。
月は鎌。
中天に淡黄の鎌の刃は鋭く光り、天の河はしぶきをなして流れ落ちてきそうですが、それらの天のさざめく光の下に、青く、白く、そして縹色に変化して明滅する輝く木が立っていたのです。
黒い夜の山肌を背景に、木は輝く花を明滅させていたのです。
あまりの変貌に、尋夫はそれが池の端のハリエンジュであることすら、一瞬忘れていました。ただあっけにとられ、息を呑み、背筋を恐怖のようなものがかすめたのを感じるのでした。
「・・・・ホタル、か」
全身を泡立たせたような畏怖の感覚が流れ落ちて、今度は腹の底から熱いものが湧き上がるのを覚えました。
男はひょいと炉端のシューバを引っかけて、小屋の外へ出ようとしています。尋夫も後を追いました。
おびただしい数のホタルが、ほころび始めたハリエンジュの花と言わず、葉と言わず、枝の全体にちりばめられたように集まり、無言の明滅をしているのです。
池水には、輝くハリエンジュがさかしまに映しだされていました。
「どうしてだろう、こんなにもホタルがハリエンジュに集まったのは」
硬直して口元がもつれるような気配に、違和感を覚えながら尋夫がつぶやきました。
「さあてなあ、この池がよほどカワニナには具合が良かったのかな」
男の口調はのんびりとしています。尋夫はその声に、我を取り戻したような気がしました。
「だけど、どうしてハリエンジュにばかり集まるんだ。花の匂いに誘われたんじゃないだろ」
「どうしてなのかはわからんが、ホタルはあれが好きなんだろうよ。生き物にはそう言うところがあるじゃないか。スズメもそうだし、蛾もそうだ。俺らにはわからない、選び方があるんだろうよ。だが、みごとなものだなあ」
「・・・・いきなりには、何が何だかわからなかったよ。俺が一人だったなら、叫んでいたかも知れないな」
尋夫はやっと人心地を取り戻したような気持ちでした。
「おじさん、待ってな、熱い燗をつけたのを持ってきてやるよ」
薪に腰を下ろした男に、ふと思い立って尋夫は言いました。
テクノラティプロフィール
「見ろや、あれを」
男は窓から身を乗り出すようにのばして、一声、唸るように言いました。
「おじさん、どうしたんだい。おじさんの頭の上で、蚊のやつがワクワクして見下ろしているよ」
尋夫がからかうように言っても、男は窓からのばした上体を元に戻そうとはしません。窓の框から、外に転げ出しそうな姿勢です。
見ろと誘っておきながら、男は窓辺を離れません。凝然として、窓枠にはまりこんだかのようです。
「おじさん、月がそんなにきれいかい。満月ではなかったようだが」
澄み渡った夜の空を埋め尽くす星の多さ、そして月の燦とした輝きには、山に住みついた尋夫でも、見上げるたびに感歎してしまうのです。
天との距離を思えば、里から小屋のあたりまで登ったとて、なにほどの違いがあるものかと思うのですが、小屋から見上げる夜の輝きは、かつて見知った星や月の姿ではありません。
「・・・・月ではないよ」
男はかすれたような声でぽつりと言い、やっと窓辺を離れました。男と入れ替わりに窓から身を乗り出して、男の見ていた方角に視線をやって、尋夫は息を呑みました。
それがなになのか、にわかにはわかりませんでした。
月は鎌。
中天に淡黄の鎌の刃は鋭く光り、天の河はしぶきをなして流れ落ちてきそうですが、それらの天のさざめく光の下に、青く、白く、そして縹色に変化して明滅する輝く木が立っていたのです。
黒い夜の山肌を背景に、木は輝く花を明滅させていたのです。
あまりの変貌に、尋夫はそれが池の端のハリエンジュであることすら、一瞬忘れていました。ただあっけにとられ、息を呑み、背筋を恐怖のようなものがかすめたのを感じるのでした。
「・・・・ホタル、か」
全身を泡立たせたような畏怖の感覚が流れ落ちて、今度は腹の底から熱いものが湧き上がるのを覚えました。
男はひょいと炉端のシューバを引っかけて、小屋の外へ出ようとしています。尋夫も後を追いました。
おびただしい数のホタルが、ほころび始めたハリエンジュの花と言わず、葉と言わず、枝の全体にちりばめられたように集まり、無言の明滅をしているのです。
池水には、輝くハリエンジュがさかしまに映しだされていました。
「どうしてだろう、こんなにもホタルがハリエンジュに集まったのは」
硬直して口元がもつれるような気配に、違和感を覚えながら尋夫がつぶやきました。
「さあてなあ、この池がよほどカワニナには具合が良かったのかな」
男の口調はのんびりとしています。尋夫はその声に、我を取り戻したような気がしました。
「だけど、どうしてハリエンジュにばかり集まるんだ。花の匂いに誘われたんじゃないだろ」
「どうしてなのかはわからんが、ホタルはあれが好きなんだろうよ。生き物にはそう言うところがあるじゃないか。スズメもそうだし、蛾もそうだ。俺らにはわからない、選び方があるんだろうよ。だが、みごとなものだなあ」
「・・・・いきなりには、何が何だかわからなかったよ。俺が一人だったなら、叫んでいたかも知れないな」
尋夫はやっと人心地を取り戻したような気持ちでした。
「おじさん、待ってな、熱い燗をつけたのを持ってきてやるよ」
薪に腰を下ろした男に、ふと思い立って尋夫は言いました。
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蚊柱【草の宿(353)】
「こいつはまずい。おじさん、窓を閉めるよ」
尋夫は窓をひょいと見上げて言いました。ランタンの光に誘われたのでしょう、蚊柱のドラム缶ほどの大きさに膨れあがったのが、みるみる近づいてきたのです。
尋夫は箸とどんぶりを板の間において、あわただしく窓を閉じました。蚊の唸りがドップラー効果のように近まるのを、ぴしゃりと遮断して、窓を覆わんばかりの蚊柱を見上げました。
「でかい蚊柱だなあ。飛び込まれたらひどい目に遭うところだったよ」
「さすがは山だ。あれだけの蚊柱に頭を突っ込みでもしようものなら、息が詰まるな。だが、蚊柱の蚊は刺しはしないのだよ」
男は呆れたように言いました。
「それは知っているけど、もしかしたらあの蚊は俺が作った池から来たのかな」
「そうかも知れないが、あの池に住んでいる主にはいい餌だ。あれだけユスリカが飛び出すんなら、イワナのやつにはな。あの池にはどれだけのイワナがいるのかな」
「それがわからないんだよ」
「なぜ?まだ作って日も浅い池じゃないか」
「それが、俺が放したのはただ一尾のイワナなんだけど、どうやらそれ以外にも魚はいるみたいだな。なにしろこの上の池糖から水を引いてしまったから、何尾かは流れ込んでいるらしいよ。時々水音がする」
「そいつはいいな。あたりがすでにつかなくなっているのもいい」
男はおもしろそうに湯呑みの中身をあおりました。蚊柱はいつの間にか窓から遠のいていったようです。
尋夫はふたたび窓により、闇の中にそれらしいものが見あたらないのを確かめてから、窓をそっと開きました。
「おや、またホタルが飛んでいったよ。ホタル見の酒とは風流だ」
男は湯呑みを手にしたまま、いざりながら窓の下により、夜空を見上げました。
「いい夜風だ。こんな夜にホタルは羽化するのか」
男は、点滅しながら揺れて飛ぶホタルを追うように、頭を窓の外に出しながら、独りごちています。
「オッ」と、男がくぐもったような声を上げました。窓から顔を出して、口元に持っていった湯呑みをそのままに、中腰に立ち上がって、身を乗り出しています。
「おいっ、あんちゃん、来てみな、すごいものがあらわれた」
男は窓の框に湯呑みを下ろして、外をむいたままで押し殺したような声で尋夫を呼びました。
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「こいつはまずい。おじさん、窓を閉めるよ」
尋夫は窓をひょいと見上げて言いました。ランタンの光に誘われたのでしょう、蚊柱のドラム缶ほどの大きさに膨れあがったのが、みるみる近づいてきたのです。
尋夫は箸とどんぶりを板の間において、あわただしく窓を閉じました。蚊の唸りがドップラー効果のように近まるのを、ぴしゃりと遮断して、窓を覆わんばかりの蚊柱を見上げました。
「でかい蚊柱だなあ。飛び込まれたらひどい目に遭うところだったよ」
「さすがは山だ。あれだけの蚊柱に頭を突っ込みでもしようものなら、息が詰まるな。だが、蚊柱の蚊は刺しはしないのだよ」
男は呆れたように言いました。
「それは知っているけど、もしかしたらあの蚊は俺が作った池から来たのかな」
「そうかも知れないが、あの池に住んでいる主にはいい餌だ。あれだけユスリカが飛び出すんなら、イワナのやつにはな。あの池にはどれだけのイワナがいるのかな」
「それがわからないんだよ」
「なぜ?まだ作って日も浅い池じゃないか」
「それが、俺が放したのはただ一尾のイワナなんだけど、どうやらそれ以外にも魚はいるみたいだな。なにしろこの上の池糖から水を引いてしまったから、何尾かは流れ込んでいるらしいよ。時々水音がする」
「そいつはいいな。あたりがすでにつかなくなっているのもいい」
男はおもしろそうに湯呑みの中身をあおりました。蚊柱はいつの間にか窓から遠のいていったようです。
尋夫はふたたび窓により、闇の中にそれらしいものが見あたらないのを確かめてから、窓をそっと開きました。
「おや、またホタルが飛んでいったよ。ホタル見の酒とは風流だ」
男は湯呑みを手にしたまま、いざりながら窓の下により、夜空を見上げました。
「いい夜風だ。こんな夜にホタルは羽化するのか」
男は、点滅しながら揺れて飛ぶホタルを追うように、頭を窓の外に出しながら、独りごちています。
「オッ」と、男がくぐもったような声を上げました。窓から顔を出して、口元に持っていった湯呑みをそのままに、中腰に立ち上がって、身を乗り出しています。
「おいっ、あんちゃん、来てみな、すごいものがあらわれた」
男は窓の框に湯呑みを下ろして、外をむいたままで押し殺したような声で尋夫を呼びました。
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喉の中のひよこ【草の宿(352)】
「煮えたようだよ、食べよう。だけど火は残すよ。おじさん、いいかい」
ストーブの火口の扉には、スライドする鉄板がついています。尋夫はその鉄板を閉じながら男を見上げました。空気の流れのシャッターなのです。鉄板を閉じると、火勢は一気に静まるのでした。
「それで丁度いいな。やっぱり山だ、里よりはよほど寒くなるようだ」
尋夫が椀によそった鶏鍋の汁を差し出すと、男は手刀を切ってそれを受け取り、立ち上る湯気を慈しむように吸い込みました。
「いい匂いだ。こいつはいい。取れたてのトビダケの初物をいただくよ」
濃厚な茸の匂いは、たちまちに蓋を取った鍋から膨れあがって、小屋の中に立ちこめそうなほどです。
椀に口を付けて熱さも熱しの汁を用心深くすすれば、一口の汁がたちまち食道をざわめかせるのです。その瞬間、尋夫は自分がどれほど空腹だったかはっきりとわかりました。やっとこさ届いた食べ物に、喉元が一斉にさざ波を立てるような気配があります。
思わず椀を膝において、尋夫は小さく呻きました。
「おいおい、あんちゃん、どうした」
いきなりうつむいて呻いた尋夫を見て、驚いて男が聞きました。
「煮上がったばかりじゃないか。どうした、やけどでもしたか」
涙目になった目を上げて尋夫は笑い出しました。
「やけどはしていないよ、すきっぱらにいきなりうまいものが入ったから、俺の喉のひよこがわめき立てているんだ」
「喉のひよこだと、なんのこったか」
「おじさん、気がつかなかったかい。この小屋にツバメが巣を作ってるんだ。親鳥が巣に飛び込んでいけば、中で雛がわめくんだよ。俺の喉の中の腹へらしのムシは、あのひな鳥みたいに総立ちだ」
男は煙に巻かれたような表情を作り、それから大口を開けて笑い出しました。
「そう言うことか。あんちゃん、それほどに腹が減ってたとは知らなんだ。まあ、ゆっくり食おう」
噛みしめればサクリとした歯ごたえがあり、茸の懐しい味が広がります。トビダケを食べるのは実に久しぶりでしたが、たちまちにその感触の爽快さと日向の匂いに、尋夫は思い出すことがいくつもあるような気がするのでした。
「あれを一つもらうぞ、あんちゃん」
男は中腰になって、囲炉裏の上の格子棚の唐辛子をもぎながら言いました。
「辛みは酒の舌の目覚ましになるのだ」
男がにやりと笑いながら言いました。
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「煮えたようだよ、食べよう。だけど火は残すよ。おじさん、いいかい」
ストーブの火口の扉には、スライドする鉄板がついています。尋夫はその鉄板を閉じながら男を見上げました。空気の流れのシャッターなのです。鉄板を閉じると、火勢は一気に静まるのでした。
「それで丁度いいな。やっぱり山だ、里よりはよほど寒くなるようだ」
尋夫が椀によそった鶏鍋の汁を差し出すと、男は手刀を切ってそれを受け取り、立ち上る湯気を慈しむように吸い込みました。
「いい匂いだ。こいつはいい。取れたてのトビダケの初物をいただくよ」
濃厚な茸の匂いは、たちまちに蓋を取った鍋から膨れあがって、小屋の中に立ちこめそうなほどです。
椀に口を付けて熱さも熱しの汁を用心深くすすれば、一口の汁がたちまち食道をざわめかせるのです。その瞬間、尋夫は自分がどれほど空腹だったかはっきりとわかりました。やっとこさ届いた食べ物に、喉元が一斉にさざ波を立てるような気配があります。
思わず椀を膝において、尋夫は小さく呻きました。
「おいおい、あんちゃん、どうした」
いきなりうつむいて呻いた尋夫を見て、驚いて男が聞きました。
「煮上がったばかりじゃないか。どうした、やけどでもしたか」
涙目になった目を上げて尋夫は笑い出しました。
「やけどはしていないよ、すきっぱらにいきなりうまいものが入ったから、俺の喉のひよこがわめき立てているんだ」
「喉のひよこだと、なんのこったか」
「おじさん、気がつかなかったかい。この小屋にツバメが巣を作ってるんだ。親鳥が巣に飛び込んでいけば、中で雛がわめくんだよ。俺の喉の中の腹へらしのムシは、あのひな鳥みたいに総立ちだ」
男は煙に巻かれたような表情を作り、それから大口を開けて笑い出しました。
「そう言うことか。あんちゃん、それほどに腹が減ってたとは知らなんだ。まあ、ゆっくり食おう」
噛みしめればサクリとした歯ごたえがあり、茸の懐しい味が広がります。トビダケを食べるのは実に久しぶりでしたが、たちまちにその感触の爽快さと日向の匂いに、尋夫は思い出すことがいくつもあるような気がするのでした。
「あれを一つもらうぞ、あんちゃん」
男は中腰になって、囲炉裏の上の格子棚の唐辛子をもぎながら言いました。
「辛みは酒の舌の目覚ましになるのだ」
男がにやりと笑いながら言いました。
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二人の酒宴【草の宿(350)】
男は煙管をくわえて、膝の上に新聞を広げていましたが、それを読んでいる風ではありません。ぼんやりと開け放した窓の外を眺めていました。
「おじさん、待たせてしまったけど、すぐに飯はできるよ」
尋夫が戸口で声をかけると、男は尋夫の方にゆっくりと振り向きました。
「有り難いな。風呂に入れてもらった上に、ごっそうにもなるとは思いもかけないことだ」
ストーブの上では、尋夫が仕込んでおいた鍋がまろやかに煮えたぎる音がして、鶏肉とキノコの煮え立つ匂いが部屋の中に充ちています。
鍋のそばでは、皮をむいていないニンニクが薄い煙を上げています。
「おや、そいつはどうするんだい、おじさん」
「おお、あんまり見事なニンニクだからな、こいつも入れたいのだが、いいか」
「それはいいな。だが、なぜ直接に鍋に入れないのかい」
「ほっくりと焼けたところを、食うのがうまいのだ。鍋に入れてよし、小塩をつけて、そのままでもうまいぞ」
たちまちに、尋夫はこの春に、先刻の崖下の雪洞で出会った男たちの、ウサギ鍋を思い出しました。あの、不思議にワクワクするような、ウサギ鍋の匂いにも、ニンニクは入っていたのです。
けれども焼いたニンニクの匂いは、それともかすかに違う、なんだか懐しくなるような甘い匂いです。
「おじさん、酒はこいつだ。どぶろくではないよ。爺ちゃんが置いていったものだ」
「驚いたな。あんちゃん、こいつは豪勢なことだ」
「まず一杯は冷やで飲むかい。爺ちゃんはそうしていたが」
「ありがとうよ。そうしよう」
尋夫がとくとくと一升瓶のままに、男の湯呑みの中に酒をつぎ終わると、男は無言で一升瓶を尋夫の手から取り、べつの湯呑みを差し出しました。尋夫は両手でそれを捧げるように持ち、今度は男がそれにとくとくと注ぎました。
男はもう一つの湯呑みに、酒を入れ、立ち上がりました。
おやと思いながら、見守っていると、男は湯呑みを持ったまま部屋を出て、窯の上の神棚の上にそれを供えるのでした。
シロツメクサをはんでいた馬が、首をもたげて、珍しそうに男の所作を眺めています。
「さあ、頂こう」
どかりと囲炉裡のそばに座り直すと、男はひょいと右手の湯呑みを持ち上げて見せました。尋夫もそれに合わせて、ひょいと湯呑みを額の上まで持ち上げます。
テクノラティプロフィール
男は煙管をくわえて、膝の上に新聞を広げていましたが、それを読んでいる風ではありません。ぼんやりと開け放した窓の外を眺めていました。
「おじさん、待たせてしまったけど、すぐに飯はできるよ」
尋夫が戸口で声をかけると、男は尋夫の方にゆっくりと振り向きました。
「有り難いな。風呂に入れてもらった上に、ごっそうにもなるとは思いもかけないことだ」
ストーブの上では、尋夫が仕込んでおいた鍋がまろやかに煮えたぎる音がして、鶏肉とキノコの煮え立つ匂いが部屋の中に充ちています。
鍋のそばでは、皮をむいていないニンニクが薄い煙を上げています。
「おや、そいつはどうするんだい、おじさん」
「おお、あんまり見事なニンニクだからな、こいつも入れたいのだが、いいか」
「それはいいな。だが、なぜ直接に鍋に入れないのかい」
「ほっくりと焼けたところを、食うのがうまいのだ。鍋に入れてよし、小塩をつけて、そのままでもうまいぞ」
たちまちに、尋夫はこの春に、先刻の崖下の雪洞で出会った男たちの、ウサギ鍋を思い出しました。あの、不思議にワクワクするような、ウサギ鍋の匂いにも、ニンニクは入っていたのです。
けれども焼いたニンニクの匂いは、それともかすかに違う、なんだか懐しくなるような甘い匂いです。
「おじさん、酒はこいつだ。どぶろくではないよ。爺ちゃんが置いていったものだ」
「驚いたな。あんちゃん、こいつは豪勢なことだ」
「まず一杯は冷やで飲むかい。爺ちゃんはそうしていたが」
「ありがとうよ。そうしよう」
尋夫がとくとくと一升瓶のままに、男の湯呑みの中に酒をつぎ終わると、男は無言で一升瓶を尋夫の手から取り、べつの湯呑みを差し出しました。尋夫は両手でそれを捧げるように持ち、今度は男がそれにとくとくと注ぎました。
男はもう一つの湯呑みに、酒を入れ、立ち上がりました。
おやと思いながら、見守っていると、男は湯呑みを持ったまま部屋を出て、窯の上の神棚の上にそれを供えるのでした。
シロツメクサをはんでいた馬が、首をもたげて、珍しそうに男の所作を眺めています。
「さあ、頂こう」
どかりと囲炉裡のそばに座り直すと、男はひょいと右手の湯呑みを持ち上げて見せました。尋夫もそれに合わせて、ひょいと湯呑みを額の上まで持ち上げます。
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冷や酒【草の宿(351)】
ぐびりと酒を口に含めば、立ち上る酒精が口から鼻の中に湧き上がってむせかえりそうになりましたが、尋夫はそこでぐっとこらえて静かに喉の奥に飲み込みました。喉元を流れ落ちる酒は、膨らむような匂いにはそぐわぬほどの、シンとした冷たい味わいです。
思わず目を閉じて、その味を舌で追いかけますが、淡雪のように消える味わい。誠に不可思議です。口の中には柔らかに、なおもふくらむ匂いが残るばかり。
男は湯呑みを口元から離して、一息つきました。男には似合わぬ、そっとついたため息のような、なんだか優しい吐息です。
「こいつはいい酒だなあ。それにこの冷え具合がなんともよいな。あんちゃん、こいつはムロの中にでもしまっておいたのかい」
男が嘆声とともに聞きました。酒は、冷えてきた山の夜気よりもさらに冷たかったのです。
「こいつは窯の中にしまっておいたんだ。爺ちゃんが置いていったままだよ」
男は尋夫の答えに、笑い出しました。
「なに、炭焼き窯の中か。ふうむ、それは妙案だ。酒は窯の中が一番と言うことか。何とも言えないいい冷え加減だな」
男は喉を鳴らして湯呑みを飲み干しました。
尋夫はストーブの上に薪を置いて、その上に信楽焼の小振りの徳利を乗せました。
「これは爺ちゃんがやっていた燗のつけ方だ。この中に酒を入れておけば、いいあんばいの燗になると言ってたが」
「なるほど、妙にも見えるが、きっといい燗になりそうだ。だが、こいつは冷やでいいようだぞ」
「それじゃあ、こいつはもう少し後回しにしておこう。おじさん、大丈夫かい。爺ちゃんは、燗をつけない酒は飲まなかったが」
尋夫は一升瓶を持ち直して、男の湯呑みに酒を注ぎながら聞きました。
「おお、そいつよ。そう言えばいつだったか、大将とそんな話をしたことがある。俺が冷や酒にも冷やし具合があると言ったら、その通りだと言ってたよ。だが、里ではそんな飲み方をしたならば、酒に飲まれたやつと言うことになる。女どもは、冷や酒を飲むやつを毛嫌いするものだからな」
尋夫は頷きました。尋夫も、冷や酒ばかりを飲むのはアルコール中毒の人間ばかりだと思っていたのです。湯呑みで冷や酒を立て続けに飲む男などは、里では白い眼で見つめていたような記憶があるのでした。
「さっき窓の外をホタルが何匹か飛んでいったぞ」
男が不意に思いだしたように言いました。
「おや、俺も風呂の中で一匹見たよ」
「そうか、山の夜は里よりもだいぶ温度が低い。それでもホタルが出る季節になったのだな。里では近頃めっきり見なくなったよ。今年のホタルを、この山の中で見たものだから、すこしびっくりしたのさ」
「あのハリエンジュの根元は元から谷地なんだ。あそこにはカワニナが住み着いているからな。石を動かせば、カワニナと沢ガニがごっそりといるんだ。ホタルが多いのはあの谷地のせいだな。谷地の水は池に流れ込んでいるから、カワニナはもっと増えるかも知れないよ。だけどどうしておじさんのところでホタルがいなくなったんだ」
「そりゃあエンドリンをあれだけばら撒き散らすのだからなあ。田んぼにも畑の堰にも、よほど流れ込んでいるんだろう。カワニナもタニシも減っているのさ」
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ぐびりと酒を口に含めば、立ち上る酒精が口から鼻の中に湧き上がってむせかえりそうになりましたが、尋夫はそこでぐっとこらえて静かに喉の奥に飲み込みました。喉元を流れ落ちる酒は、膨らむような匂いにはそぐわぬほどの、シンとした冷たい味わいです。
思わず目を閉じて、その味を舌で追いかけますが、淡雪のように消える味わい。誠に不可思議です。口の中には柔らかに、なおもふくらむ匂いが残るばかり。
男は湯呑みを口元から離して、一息つきました。男には似合わぬ、そっとついたため息のような、なんだか優しい吐息です。
「こいつはいい酒だなあ。それにこの冷え具合がなんともよいな。あんちゃん、こいつはムロの中にでもしまっておいたのかい」
男が嘆声とともに聞きました。酒は、冷えてきた山の夜気よりもさらに冷たかったのです。
「こいつは窯の中にしまっておいたんだ。爺ちゃんが置いていったままだよ」
男は尋夫の答えに、笑い出しました。
「なに、炭焼き窯の中か。ふうむ、それは妙案だ。酒は窯の中が一番と言うことか。何とも言えないいい冷え加減だな」
男は喉を鳴らして湯呑みを飲み干しました。
尋夫はストーブの上に薪を置いて、その上に信楽焼の小振りの徳利を乗せました。
「これは爺ちゃんがやっていた燗のつけ方だ。この中に酒を入れておけば、いいあんばいの燗になると言ってたが」
「なるほど、妙にも見えるが、きっといい燗になりそうだ。だが、こいつは冷やでいいようだぞ」
「それじゃあ、こいつはもう少し後回しにしておこう。おじさん、大丈夫かい。爺ちゃんは、燗をつけない酒は飲まなかったが」
尋夫は一升瓶を持ち直して、男の湯呑みに酒を注ぎながら聞きました。
「おお、そいつよ。そう言えばいつだったか、大将とそんな話をしたことがある。俺が冷や酒にも冷やし具合があると言ったら、その通りだと言ってたよ。だが、里ではそんな飲み方をしたならば、酒に飲まれたやつと言うことになる。女どもは、冷や酒を飲むやつを毛嫌いするものだからな」
尋夫は頷きました。尋夫も、冷や酒ばかりを飲むのはアルコール中毒の人間ばかりだと思っていたのです。湯呑みで冷や酒を立て続けに飲む男などは、里では白い眼で見つめていたような記憶があるのでした。
「さっき窓の外をホタルが何匹か飛んでいったぞ」
男が不意に思いだしたように言いました。
「おや、俺も風呂の中で一匹見たよ」
「そうか、山の夜は里よりもだいぶ温度が低い。それでもホタルが出る季節になったのだな。里では近頃めっきり見なくなったよ。今年のホタルを、この山の中で見たものだから、すこしびっくりしたのさ」
「あのハリエンジュの根元は元から谷地なんだ。あそこにはカワニナが住み着いているからな。石を動かせば、カワニナと沢ガニがごっそりといるんだ。ホタルが多いのはあの谷地のせいだな。谷地の水は池に流れ込んでいるから、カワニナはもっと増えるかも知れないよ。だけどどうしておじさんのところでホタルがいなくなったんだ」
「そりゃあエンドリンをあれだけばら撒き散らすのだからなあ。田んぼにも畑の堰にも、よほど流れ込んでいるんだろう。カワニナもタニシも減っているのさ」
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